週末、「ザ・ラスト・サムライ」を近所の映画館で見た。美しいファイトシーンの連続。騎馬戦をこれだけ美しく撮影した映画はめったにない。

アメリカの開拓者は西部を目指し、先住者であるネイティブアメリカンを虐殺しながら西海岸にたどり着いたわけなのだが、その先、海を越えてみたらまだまだ野蛮人がおり、ネイティブ・ジャパニーズたるサムライが虐殺の対象であった、ということらしいのだ。明治天皇に「そのインディアンたちは、勇敢だったのか?」とわざわざせりふにして明言させるまでもなく、サムライはネイティブ・アメリカンの仲間であり、原始人でしかなかったのである。即ち、鳥の羽飾りを頭にまとうかわりに、大げさな飾りのついたかぶとをかぶり、トマホークの変わりに日本刀を振りかざし、無謀にも雨あられの銃弾に向かって突進してくる非論理的存在。ネイティブアメリカンにシンパシーを抱く騎兵隊員ケビン・コスナー(Dance with Wolves)に相同なネイティブジャパニーズにシンパシーを抱く騎兵隊員トム・クルーズ。破壊と和解の末にたどり着く結末は、桜を見ながらのネイティブ・ジャパニーズ、ケン・ワタナベの美しい死であり、捜し求めていたアイデンティティトム・クルーズは文字どうり刺し違え、再び見失い、ただの人間となる。生活者となるのだ。

でも個性をもたぬネイション・ステートは生活者に着地することができない。映画には描かれていないが、歴史的には開拓者は更に西へ西へと進軍する。それが後の朝鮮戦争であり、それはベトナム戦争に続き、アフガン、そして目下のイラクに至る。そこには爆弾を抱えて自爆攻撃に突入する非論理的存在がおり、なおもまた理解に苦しんで彼らを「テロリスト」と呼称するのだ。そして、アメリカは更に西へ、進むのだろうか。中国の古書が記述した西方浄土を、とっくに通り過ぎているのにもかかわらず。

それにしても、これで神風特攻隊の挙動に納得がいった、というような解釈がまかりとおってしまうのではないか、と私は心配。このブシドウ解釈は、神風特攻隊のレファレンス故の解釈なのだ。日本はいざしらず、世界の日本理解なんてその程度なのである。昨年米本土で、シネマベスト10に入ったという。なぜ心配なのか?「日米同盟」なる言葉、いまや二年越しの中東戦争で憂鬱な気分のアメリカに、「今度はカミカゼが味方だし」なんて誤解してもらってはおおいに困るのである。