東京の街を歩いたときに入ってくる情報の量は膨大だ。目に入る看板や人の動き、ラウドスピーカーの音、呼び込みの声。人間が単位時間あたりに消化できる情報量というのはどのぐらいなのだろうか。イスラムの学者は古来コーランをすべて暗記するのはおろか、あらゆる書物を暗記することが仕事だったそうである。本という存在が貴重な時代には、こうした「歩く書物」が情報蓄積の手段だった。誰だったか日本のイスラム学者が書いていたが、客人としてきていたイスラムの学者が一晩で分厚い本を一冊すべて暗記して仰天したとかなんとか。あるいは手塚治虫は立ち読みで速読してその内容をすべて記憶した、という伝説も聞いたことがある。こうした特例を含めても、情報の吸収量には自ずと上限があるはずで、情報の伝達が問題にならなくなってくれば、情報吸収量の絶対的な上限がその流通の(意味ある)ボトルネックになるだろう。だとしたら、その上限は物理量としてどのぐらいなのだろうか?測定方法を考えていて「時計じかけのオレンジ」を思い出してしまった。主人公は、まぶたが明かぬように針金で固定され、暴虐シーンが続くフィルムを延々と見なければならないのだ。そしてバックには第九。