ゴレンジャーといえば、赤レンジャー(リーダー)、青レンジャー(ニヒルなやつ)、黄レンジャー(力持ちで大食漢で頭がトロい)、桃レンジャー(紅一点)、緑レンジャー(人畜無害でひ弱)という5人の部隊が邪悪と対決するというテレビ番組で、70年代前半に放映されていた。知っている世代は限られるのかもしれないが、戦隊物はおよそこのようなキャラクター構成を踏襲している。「Aチーム」にしても、紅一点を除けばにたようなキャラクター構成だ。私はかつてゴレンジャーに夢中になっていた。この幼児体験は、私のグループにおける人間関係の把握、身の処し方にどのぐらい影響を与えているのだろうが、と思ってしまうことがある。例えば、ある人間集団のメンバーを見たときに「お、青レンジャーだ」と0.1秒程度反応しているようにも思う。あるいは私自身があるグループに属するときに「うーん、ここでは緑レンジャーかなあ」と思うまでもなく、緑レンジャー的役割に自己規定しまっているのかもしれない。知っている身振りを繰り返してしまうのだ。全体としては、知らず知らずのうちに「ゴレンジャー」の物語を構成することになる。すなわち、キャラクターが自己規定してしまえば、物語の構成が走り出す、という自動性がある。

現在の大メディアの身振りを見ていると、こうした自己規定による物語の構成が、今まさに進行しつつあるのではないか、と思ってしまう。反戦キャンペーンを繰り広げるメディアにしろ、戦争推進キャンペーンを繰り広げるメディアにしろ、過去にあった身振りを陳腐な形で踏襲して安眠をむさぼっているように見える。例えば、反戦キャンペーンを推進する朝日新聞の、自衛隊員の恋人を戦争にいかせたくないので、自衛隊派兵反対書名を街角で集める、といった記事だ。この女性の意図についてはウェブでもいろいろな意見を見かけるし、私自身も思うところがある。しかし、もっとも注目すべき点は、この記事の背後にある第二次世界大戦の「銃後の女」の悲劇という暗黙の了解なのではないか。「銃後の女の悲劇」というカタ(フォーム)に、なんの疑いもなく寄り添ってしまうことは、上記ゴレンジャーの話と比較すれば、メディアが規定のキャラクター(反戦かもしれない)を再演し、お手本をなぞる安逸と満足感に陥っているとみることができる。

あるいはこれが「職務に忠実であること」の陥穽であると私は理解する。メタレベルでは反戦キャンペーンというカタを踏襲することで戦争遂行に参画しているのであり、別の言い方をすれば、雰囲気醸成に一役買っているのだ。「気分はもう戦争」、なのかもしれないが、それはマジメという怠惰以外のなにものでもない。