Japan to send the Self Defence Force to Iraq (形容矛盾*1)
というわけで、年末なのであり、回顧である。俺は今年、なにをやっていただろう。一月に『トーキョー・ボディ』をやったほか、これといってなにもしていないじゃないか。でも、「チェーホフを読む」をはじめ、連載はしているのだな。戯曲をまじめに読んだ年だ。あと大学で教えていたし、ワークショップをやっていた。大学でずいぶん消耗した気がする。そういえば、京都に行ったら学生たちから「顔色が悪い」とやたら言われた。言われつづけているうちに、だんだん不安になってくるのだ。どこかからだがおかしいのではないか。そんなこんなで47歳。そしてニュースを見れば、その日は歴史的な一日になっていた。
というわけで、いろいろな意見をコピペしておく。
首相が言いたいのは
(1)日本が自国一国の平和に専念して、他国の戦争状況を看過することは、普遍的な政治道徳に悖る
(2)全世界の国民が「恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」ように「国家の名誉をかけて全力をあげる」ことを憲法は命じている
ということであったらしい。
つまり、小泉首相は他国民が「平和のうちに生存する権利」を護持するためという大義名分さえあれば、当該国民からの要請抜きでも、日本は他国に派兵し、そこに平和をもたらしきたすことができる(どころか義務を負っている)という大胆にして斬新な憲法解釈を行ったわけである。
すごいね。
なぜ大胆かというと、この解釈が「あり」なら、日本はこの先もうなんでもできるからである。
小泉首相がイラクへの自衛隊派遣で記者会見。日本国の理念からいって必要なことと語ったことに唖然とした。鶴見俊輔さんがブッシュ大統領を「大馬鹿者」と評したが、小泉首相も同じ程度だ。アメリカのサンチェス司令官はイラクが「戦争状態」だと認め、来年6月末のイラク政権樹立に向けてテロなどの戦闘が増大するという見解を述べている。そこに自衛隊が向かうことの意味は、衒学的な法律解釈ではなく、現実的可能性として戦闘がありうるということである。相手がゲリラであろうと、旧政府組織であろうと、そこに戦闘が起れば、憲法第9条(戦争放棄)やイラク特組法第2条第3項(「非戦闘地域」への派遣)、さらには自衛隊法第3条(自衛隊の任務)までが吹き飛ぶ。日本人が歴史のなかで築いてきた理念が、それこそ一政権によって蹂躙される。小泉首相には歴史に対する責任などないのだろう。
昨日、小泉首相の記者会見をTVで見た。発言に特に目新しいものは感じなかったが、ただ「自衛隊を危険な地域に出す」という態度に変わっていた。しかしこれこそが最も重要な変更ではなかったか。自衛隊を平和なところに派遣して、そこで襲われれば正当防衛が成り立つ。しかし危険(戦闘)が予測される場所と認識して、そこに戦闘部隊(自衛隊)を送れば正当防衛は成り立たないと思わないのか。当然ながら戦場であれば、自衛隊は有無をいわずに戦闘に巻き込まれる。
すでに政府は、戦争とは「国家の組織が行うもの」で、テロ、ゲリラは戦争ではないといった詭弁が使っている。それではベトナム戦争は戦争ではなかったのか。このようにその場、その場でウソをつき、今まで誤魔化し続けてきたから、ついに論理破綻しただけだ。
すでに各紙が取り上げているが、大義に憲法の前文を示すなら、9条との整合性を説明してほしかった。派遣される自衛隊は憲法9条の交戦権禁止で、必要な武器使用を禁じられている。小泉首相がいう憲法の前文が錦の御旗(にしきのみはた)なら、自衛隊はイラクで武器使用の制限から解放されるのか。もし政府が前文に従うなら、必要なら戦車や戦闘機の派遣も許されることなのか。国民の多くはそうとは思わないだろう。記者会見の内容は都合のいい言葉を寄せ集めただけで、全体のバランスは著しく欠ける内容であると感じた。(正直に言うなら、政治家はこの程度の理屈で、国民を戦争に行かすのかという気持ちである)
残念ながら、小泉首相の説明は不明瞭である。これでイラクに派遣される自衛隊員の不安は解消しないだろう。また送り出す国民も、不安を拭い去ることは出来ない。
小泉首相の記者会見は日米同盟最優先の政策を明らかにしたものだ。憲法違反ではないかという質問にも、前文を持ち出して根拠にしていたが、法解釈に無理がある。明らかに日本では憲法よりも国際条約のほうが優先する国家である。これは法令でそうなっているのではなく、歴代の内閣がそのような運用をしているからだ。分かりやすくいえば日米安保がある限り日本はアメリカの従属国だ。
表面では日本とアメリカとは「イコールパートナー」と言いながら、裏ではあの手この手と日本を締め付けてくるのがアメリカだ。いよいよ日本軍も自主防衛体制をとれぬままアメリカの戦争に駆り出されるようになりました。小泉首相はその決断をした首相として歴史に残るだろう。ちょうどアメリカは徳川家康のように譜代大名をこき使って生かさず殺さずの幕藩体制を整えたのだ。
政府の自衛隊派遣決定、もう少 し扇情的な報道がなされると思っていたけれど、案外各マスコミおとなしい。様子見というところか。私も、今の日本が自衛隊を派遣したってどれだけのことが出来るかは疑問だし、アメリカの言いなりは胸くそ悪い。しかし、じゃあアメリカの助力なしに、今の日本に何が出来ると思っているのか。自前の情報衛星すら打ち上げられず、北朝鮮にあざ笑われている国が日本なのだ、今はただ、じっと我慢して強いやつの言いなりにならねばいかんのである。なぜ、それが出来ない。神崎与五郎の詫び証文とか、韓信の股くぐりとかを美談として伝えてきた国民だろう、日本は。もっときちんと自虐するべし。自虐史観というのは、日本が戦争を起こしたことに対して持つものではない。“戦争に勝つことすら出来なかった”ことに対して持つものなのである。昨日、二・二六碑の前で、太平洋戦争がいかに正しい戦争だったかを訴えているおじさんがいた。冗談ではない。一国にとって正しい戦争とは、勝った戦争の謂でしかな いはずだ。
ってかなんてか、昨日今日なんか、すべての言論が自衛隊関係でも全然おかしくないほど大事な話だというのに、一体どうして知恵ある人びとの興味関心は今日も日常なのだ? 私としてはこれを記憶しておきたい。
結局が難局、私たちは多分、いろいろと考え直す日々に突入した。その前にまだ抵抗できることはあるのだとしても。
<中略>
政治家をはじめとした、学者、文筆関係者@日本だけ、という人びとの問題が私には他のどのファクターよりも、日本を「日本」たらしめ、そして首を締める手伝いをしていると考えている。これからだね。
明らかに想定問答集を作った上でのスピーチと記者会見で、十分な合格点を与えて良いでしょう。ここで大事なことは何度も繰り返すけれど、自衛隊を出すというのは、長い道のりのファースト・ステップに過ぎないということです。一日も早く企業戦士を送り込んでインフラ整備に当たれる態勢を整えなければならない。
もう、自衛隊云々という議論は、いい加減止めなさい。そんなことは問題の核心でも何でもない。武器を使っての治安回復はアメリカがやるんだから。われわれの役割は、インフラ整備で人心を掴むこと。それには自衛隊が出来ることは限られている。
一日も早く、どうやって企業戦士を送り込み、クウェートからの輸送路を確保し、現場労働者をイラクへ送り込むかだ。いざ陸自が出て行くまで2ヵ月間、だらだらとこんな議論を続けるようでは、自衛隊は出したが、サマワの状況は何一つ好転しなかったという結果を招きかねない。できれば、自衛隊と同時に、民間企業の調査団を軍属扱いで送り込み、彼らは自衛隊の宿営地に宿泊させ、その一ヶ月遅れくらいで、千人規模の労働者と資材を送り込む状況を作るべきだ。大西英司 日記帳 12月10日 [Link]
小泉首相の会見を見た。何ら目新しい主張なし。「イラク人の、イラク人による、イラク人のための政府」を確立することが大事だと言っておきながら、その直後に「アメリカは日本の唯一の同盟国」などとして日米同盟の重要性を強調する。それらを両立させるんであれば、日米同盟の利益、いや日米の「国益」に適う形でイラクの政府が作られるしかないやないか。
先日の3日に小泉首相と会談したイラク民主化運動の指導者の一人であるアブドラール・リカービ氏は、以前から自衛隊の派遣に対して反対の立場を表明しているにもかかわらず、今回の会談があたかもイラク市民が自衛隊の派遣を望んでいるかのように扱われたことに大変怒ってはる。そして次の4日に行わる予定やった川口外務大臣とのキャンセルをしはった。小泉首相にとってイラクでの民主化を推進しているリカービ氏は、彼の考えている「イラク人」には当たらないらしい。
それから「一般国民ができないことでも自衛隊ならできる」という発言。ほんなら日本道路公団を派遣して、イラクで一般道路や高速道路をたくさん作ればいい。彼らは「一般国民ができない」道路建設のプロやろうから。本当は他の発言に対しても批判するべき点が数多くあるんやが、先に書いたように今回の会見での発言内容には何らの新しい主張がないので、ここで改めて書く必要がない。それこそ「キリがない」。
しかしあれやな、質疑応答の際の各メディア関係者の質問もどうってことないもんばっかりやったな。あらかじめどの記者を指名するか決めとるんと違うかと思ったくらい。何で「テロ」という言葉に突っ込まんのや。「テロ」を客観的に使うことはできないんやから、政府はまずその定義を示すべきやと誰一人して質問できんのか。なんとも歯がゆい質疑応答やった。
橘 秀和 T's diary 12月6〜9日 [Link]
イラクに国はない(とされる)。だから戦争状態ではないというのが日本国の自衛隊派遣の論理だ。
しかし戦争で国がなくなったのは今回が初めてではない。松岡完の『ベトナム症候群』ではないkれど、ベトナム戦争だって、アメリカ国とベトナム人民の戦いだった。ホーチミン率いる北ベトナム政府とアメリカの戦いではない。歴史を語るのに仮定法は似合わないが、おそらくホーチミンが死んで北ベトナム政権が崩壊してもベトナム戦争は続いただろう。
その意味ではベトナム戦争の時に、従来の国家間戦争の枠組みが無効になったことを認めて、戦争とか平和の提議をやりなおしておくべきだったのだ。
ぼくは戦争状態でも自衛隊を出せるようにすべきだと考えている。しかしそれは九条改正を意味しない。九条はそのまま、自衛隊法を変えることで戦争状態でも非軍事組織として国外に出せるようにする。自衛の建前で国外に出して、なし崩し的に戦争に巻き込まれ、憲法九条を変える前にその空文化をしてしまう最悪のシナリオを避けるために、たとえ(提議によっては)戦争状態(と呼ばざるを得ない状況下)で出しても、戦争に加担しないための法的な枠組みを明確に与えておく。その法的縛りの内容はもちろん議論が必要だけど(9条の自衛権まで放棄したラディカルさを生かしつつ、いかに自衛隊を派遣するか。そこで、たとえば人道支援しかしない。人道支援遂行の妨害要素を排除する限りにおいて軍事力を行使するというように制限をつける?)まったく不可能なことではないと思う。と言うようなハナシを今度出るspa!で書いた。こういうキテレツな論理をもてあそびがちなところが、それこそ永江さんに危険な思想家とか言われちゃうところかもしれないが、現時点では結構マジで良いアイディアかなと今は思っている。ベトナム化した状況の中でいかに国際貢献が可能かというのがとても現在的な問題なのだと思うのだが。そしてこの案のステキなところは、アメリカ軍と人民の戦いの戦争の中でライフラインの整備などの人道的支援を行うことは、人道の名において世界を支配しようとしてきたアメリカのヘゲモニーにポリティカリーコレクトな建前の中で意趣返しの一矢を報えるところだ。
笑う以外に反応しようのない無茶苦茶な解釈で憲法まで持ち出してくる小泉首相に対して、そしてそれが「通って」しまうことに対して、一体何を「感じれば」よいのかさえ分からなくなる。どんな言葉も、理屈も、手続きも意味などなく、ひたすら「恫喝」と「泣き」だけで周囲を言いくるめ、「後になれば分かります、今までもそうだったでしょ」などと平然と口にするような男の空虚なゴリ押しが勝利する様は、別に国政の場だけではなく、確かに至るところに見られる見慣れた風景ではあるのだが。(例えば人の死を「遺志を継ぐ」などと言って劇化し戦意高揚に利用するような野蛮な行いは、ありふれてさえいる。)このような場所で、流れに「反対」を表明することは、どのようにすれば可能なのだろうか。(反対意見はいくらでも聞きますよ、でも最終的には私が「責任を持って」判断します、苦渋の決断です、とさえ言えば何でも通ってしまう。議論も手続きも何もない。)「耐え難いことを耐え難いものとして記述する営為」は続けられなければならないのだとしても、ここでは「耐え難い」という感情を辛うじて記しておくことが出来るだけだ。
偽日記 [Link] 12月10日
そりゃ、日本の兵士が投入されればそれによって危険がもたらされるかもしれないということはある。でも、私はそれはまともな判断じゃないと思うのだ。つまり、危険というのは有るか無いかという問題じゃなくて、どの程度危険なのかという度合いの問題だ。そしてその度合いは現状、低いと判断することは合理的だ。なにより、以前のダイオキシンの馬鹿騒ぎじゃないが、危険ということに浮き立つサヨだの進歩派だの非合理性が私は大嫌いだ。恐怖で大衆を操作しようとする心根も卑しいと思う。
というわけで、サマワに1000人というのは、別に現地での危険性がそれほど高いわけでもないんだから、悪くないじゃんと思う。そんなことして東京がテロにあったら…というのは、話が別だ。
以上をもって、私の意見は「イラク派兵、どっちでもええやん」である。
極東ブログ [Link] 12月9日
結局、兵隊を出すということは、重いことなのだ。これまでは自衛隊のイラク派遣問題を考えるときに、自衛隊員にどんな危険が及ぶのかを考えていた。しかし、イラクの反占領軍勢力にとっては、占領軍に加担する国は敵国であり、まして、兵隊(少なくとも反占領勢力にとって自衛隊は兵隊だろう)を送り込む国は敵のなかの敵だ。そうであれば、敵国の人間ならだれに対してでも、「敵は殺せ」というルールが適用される可能性はあるのだ。
兵隊を出すということは、戦地に赴いた兵士にかぎらず、出した国民全体がリスクを背負うということなのだ。イラクに派遣される自衛隊員のリスクがもっとも高いのはたしかだが、海外にいる日本人も、国内の日本人も、自衛隊のイラク派遣に伴うリスクを背負うことになる。
リスクが小さいにこしたことはないが、ときには、背負うしかないこともあるだろう。問題は、そのリスクは、国民が本当に背負うべきリスクかということだ。
私は先々週のこのコラムでも書いたが、そもそも米国の先制攻撃によるイラク戦争に大義があるとは思えないし、そんな戦争の後始末に自衛隊をイラクに派遣するイラク特措法もおかしいいと思う。そして、その反対を横に置いても、イラクの現状は、復興支援を目的として、非戦闘地域に自衛隊を派遣するというイラク特措法の条件からも、はずれていると思う。抵抗勢力による攻撃が日常化している現時点での自衛隊派遣は、イラク特措法の趣旨にも反する行動だと思う。