イラク情勢 2003年11月7日ー10日

国際社会が連携してイラク復興に尽力することを宣言した10月中旬の国連決議の希望的観測を裏切り、米をサポートする予定であった同盟国とおぼしき国々が次々とイラクから撤退している。先週にはM-1アブラハム重戦車が2台、攻撃されいずれも破壊され、反乱の激化を端的に物語っている。イラクにおける反乱の組織化が顕著だ。それを「不法入国した外国人テロリストによるテロ」と米国は一方的に断定している。

確かに、立て続けに米軍のヘリを撃墜した巧妙さはチェチェンゲリラの対ロシア戦を思わせる。米国が主張するように、外国のテロリストが関わり、もしかしたらチェチェンまでもが「連合軍」になってしまっている、という冗談までもが笑えなくなる。しかも、攻撃を仕掛けているのは外国のテロリストだけではないのだ。先週放映された韓国テレビ局の取材からもわかるように、元バース党の兵士も反乱に加わっている。先週号のドイツ、シュピーゲル誌にも同様の元イラク兵士に対する覆面インタビューが掲載されていた。

先週米軍大隊長が、尋問の際にイラク人に拳銃をつきつけた、との咎で問題になっている。このいかにも占領軍の行いそうな暴力的尋問の結果、米軍が待ち伏せ攻撃を回避することができたというのは結果論としてよかったのかもしれない。しかしである。その拳銃をつきつけられたイラク人は、実はイラク警察の警官だった。警官が「テロリスト」の動向を把握し、人権問題になるほどの態度で拳銃を突きつけられてはじめて、待ち伏せ攻撃のことを口にする。占領政策の破綻が、ここにも明白だ。

4月のバクダット陥落の際に、首都決戦と意気込んだ米側の思いに反してあっけないほど簡単に、主たる抵抗もなく首都は陥落した。同時にバクダットから南部にかけて、あたかもその撤退が計画されたかのように兵士達が砂漠の中に消えるようにいなくなった。このことからバクダット陥落直後、一部ではこのエンディング不可解也、とのさまざまな憶測が乱れ飛んだ。楽観的な米国は、米国の軍事力を前に共和国防衛軍は尻尾を巻いて逃亡したとの解釈をした。いずれにしろこうした憶測は4月の時点では単なる憶測にすぎなかった。しかし今の時点でのイラク情勢はその理由を実に明快に説明する。撤退はゲリラ戦にむけた戦略的な撤退にほかならなかったのだ。

こうした状況にもかかわらず、ドイツにイラクでの協力を要請したり、自衛隊派兵を予定どうりに行おうとしている日本は「アメリカのプレッシャーに耐えかねてしかたなく」という日本の理不尽な弱さを指摘するメディア(英・ガーディアン)もある。

  • 7日、モスルで警察署、迫撃砲攻撃を受ける。バクダットの北東、モクダディヤでも米軍駐留の警察署に迫撃砲攻撃。
  • 7日夜から8日にかけてティクリート周辺で掃討作戦展開。40人拘束、武器多数押収。
  • 7日、川口外相がドイツのフィッシャー外相にイラク復興での協力を要請。
  • 8日朝、ファルージャで道路わきの爆弾爆発、米兵二人死亡、一人負傷。
  • 8日バグダット、時限爆弾により米兵人一人死亡、一人負傷。
  • 8日、アーミテージ国務副長官がバグダットで記者会見。「極めて戦争に近い、とコメント」
  • 8日、赤十字国際委員会(ICRC)はバクダットとバスラの事務所一時閉鎖を決定。職員のほぼ全員が撤退。
  • 8日、日本政府は自衛隊派兵地域をイラク南部、バスラの北西サマワとした。12月中旬、150人の先遣隊。総計陸自700人、空自150人、海自が300人になる予定。
    • CIAの作戦部長だったミルト・ベアデンがこのところの国連・赤十字など米国以外の組織に対する攻撃に関して、これは孫子のいう戦略的な「同盟者に対する攻撃」である、とニューヨークタイムズでコメントしている。日本がイラクに駐留すれば、同盟国に対する攻撃の見せしめとして、激しい攻撃が加えられてもおかしくはない。
  • バクダットの南50キロ、イスカンダリアで9日夜、ロケット弾攻撃により、米兵一人死亡。同時に中部ファルージャ空爆
  • 10日までに、ウォルフウィッツ米国防副長官を狙った10月25日のテロに関連して35人を逮捕。
  • 10日付けの英紙タイムズのインタビューで、ブレマー米文民行政官はイラクでのテロ攻撃の激化、連合軍の情報収集能力の欠如を認めた。旧フセイン政権の情報諜報員を少数含めることもやぶさかではない、としたとのこと。