フランクフルト図書メッセにおける平和賞受賞記念講演。
スーザン・ソンタグ
http://books.guardian.co.uk/review/story/0,12084,1065133,00.html

911テロ直後に「テロリストはすくなくとも卑怯者ではなかった」とフランクフルターアレゲマイネに寄稿し、その反射的な批判力に私は励まされ、そして期待した。しかしその後しばらくのちに「イスラム極右のテロリズムに対しては戦争は回避できない」とアフガン侵略をサポートする腰砕けの中道的な転向声明を行い、私を失望させた。とはいえ、上記の10月18日における講演ではかなりアンビバレントな内容。ふたたび揺れつつある。米国を帝国主義としてはっきり断罪する一方、自分の心は常にヨーロッパにも向かっていた、なぜならそこにはドイツ文学があったから、と「知性の大使」としての立場からの発言も見られる。

最終的な結論は「本の存在が私のこころを他の文化に飛翔させ、私を自由にする」というドイツロマン主義王道的なものとなっているが、果たして目下の切迫した米国の状況において、数少ないまともな批評家としてはあまりに逃避的ではないか。

日々戦死者がその数を増やしていく状況で、「本が私を自由にしてくれる」という善男善女なコメントは政治的のみならず形而上学的な責任を回避しているとさえいえる。ここでいう形而上学的な責任とはヤスパースのいう責任だ(「罪悪論」。トランスクリティークで引用されている部分)。ユダヤ人がアウシュビッツで殺戮された、という事実に例えば私には政治的責任は皆無である。しかし形而上学的には「ではなぜ私は生きているのか」という罪悪感が生まれる。さらに私の場合でいえば、阪神大震災後の虚脱、なぜ彼らは死に、私は生きているのか、という疑問だし、そして現在進行している低強度局地紛争についてもそうだ。

「ではなぜ私は今生きていることが出来るのか」。

少なくともソンタグはこの問いに真っ向から挑むべきである。