分節化の問題

人種間差異の遺伝子レベルの差異をレイシズムといかに向き合わせるか、という最近の論壇状況の簡単なまとめを見かけて、こりゃやばいかもなー、と思った。伝統的に生物学はシグナルとノイズ、という考えかたをあまりしない。したがて、分類は恣意的であり、分子生物学にも遺伝子レベルでその博物学的な伝統がしっかり根を張っている(今いうバイオインフォマティックスを眺めてもその限界を超えているものは少ない)。私はそうした恣意的な部分に批判的な立場にあるマイノリティなのだが、下のような話を眺めるとますます問題だな、と思う。というのも例えばその実アルリズム的に恣意的である判断をコンピューターに任せてその結果があたかも自動的に導かれ、客観的であるかのように結論を導くというのは頻繁に見かける話で、したがって人種問題の話を改めて合わせて考えるとアレである。

It's true that for the racial determinists the key difference between groups is biological, while for the anti-racists it is cultural or environmental. But even this line blurs on closer inspection. As neo-Darwinians, the race realists are keen to play up environmental influences, while their opponents, in emphasising cultural traditions, find themselves left clutching ancestral and, therefore, biological 'roots'. That, of course, is the point of tribalism: to make blood and culture inseparable. As Malik observes: 'The distinction between racism and anti-racism no longer appears clear-cut, and neither does the distinction between racial ancestry and cultural heritage.'

It's not a black and white issue
Andrew Anthony Sunday June 29, 2008

理性の排除機構

少々科学によりすぎていて文脈が見えなかったかもしれないので追記。分類学と”理性”は実に近しいという点は繰り返し批判されているが、上の記事で紹介されている本では、そのことを踏まえながら理性の擁護を説いているそうである。でも”理性”って悪用されやすいという点は何度も繰り返し確認すべきことだと思う。この点を指摘した最近みかけた二つの文章*1

macskaさん:ネオコン左派」に転じる世俗的ヒューマニズムと「新しい無神論者」
http://macska.org/article/225

    • > "理性"の差し出され方の問題。

こうしたやり取りを振り返ると、やはり「新しい無神論者」の広がりや世俗的ヒューマニズムには、「ネオコン左派」に転じる危険を大きく内包していると感じないわけにはいかない。そして、米国より一足先に世俗的ヒューマニズムが広く浸透した西欧では、いままさにイスラム系移民へのバックラッシュを重要な、しかし唯一ではない背景として「世俗的ヒューマニズムか、多文化主義的ポスト世俗主義か」という論争がさかんになっている。リベラリストであるわたしは、もちろんメタ制度としての世俗的ヒューマニズムのさらなる波及を原則的に希望しつつ(宮台真司的に言えば「わたし自身もネオコンと同じ」部分が間違いなくある)、それに西欧中心主義・理性中心主義という負の面もあることにも敏感でありたいと思っている。

金光翔さん:共和主義的レイシズム――『週刊朝日』見出し「いい加減にしろ! 韓国人」補足?
http://watashinim.exblog.jp/8355309/

たとえば、2003年のフランスでは、イスラム・スカーフを着用して公立学校に登校した少数のアラブ系女子学生が、「政教分離」と「女性解放」の名の下に排斥された。「女性蔑視のシンボル」と一義的に断定されたスカーフをまとう彼女たちは、「家父長制に屈した娘」として主体性を否定され、さらに、学校側の説得を聞き入れようとしなかった者たちは「原理主義に洗脳された娘」として排斥されたのである。こうして、だれもが賛同する普遍的理念の名の下に、同化圧力に抗う少数者を糾弾し、沈黙させるところに、テヴァニアンの指摘する「共和主義的レイシズム」の本質がある。」>(注)
そして、菊池は以下のように続ける。
「これ(注・「共和主義的レイシズム」)が厄介なのは、普遍的理念に訴えるため、人種主義とは一見無縁であり、従来の極右支持層を超えて、広くリベラル左派層にも支持される点である。」<・・・>
「脱ナショナリズム」という「普遍的理念」を自分たちが保持していると考えているからこそ、レイシズムが正当化され、再生産されるのだ。もちろん、こうした「共和主義的レイシズム」は、従来からの差別意識と絡み合っているだろう。
だから、『週刊朝日』の見出しも、朝日にもかかわらずこのような見出しを付けたというよりも、朝日的なリベラルこそ、「共和主義的レイシズム」に、右派メディアよりもより容易に感染するという側面から考えるべきであろう。

理性・普遍性は特殊を排除する。字義からすればまあ、予想される結果だ。ではあるが、この括りの判断において目下の世界観の中で理性や普遍性の主柱と目されるであろう科学、そのドロドロした現場では実はとても恣意的な操作があまり問題にされることなく起きているんで問題である、としたのが上の項のいわんとするところ。今世紀のレイシズムを巡るバトルは試験管で行われる、というのはこのことだ、と私は思っている。

*1:それにしてもこうした鋭い指摘を行っている二方がそれぞれ在外、在日というのが又問題の在り処をさしていることにほかならぬのだが