弁慶からの質的転換

秋葉原の事件を評してこれまでにも何度も繰り返されてきた通り魔犯罪である、とりたてて驚くまでもないのである、といった意見を散見する。犯罪そのものを眺めればそりゃそうだ、というしかない。人間の行動はそんなに変わらない。これは確かなことだ。弁慶だって京都の橋で夜な夜な通り魔を行っていた。かくなる人間の本質に対する悟性をもってすれば、秋葉原の通り魔にしたって驚くに値しない、というような意見は、しかしながらなぜわれわれが秋葉原の事件に感情の琴線をひかれてしまうのかということを説明しない。
決定的に異なっているのはログがウェブに公開されていた、という点である。ウェブをうろうろしている人間はそこにアクセス可能であった、知ることができた、しかしながら看過した、という点において当事者ポテンシャルの違いが決定的に生じている。ウェブにアクセスしている、という作動において、現場にいあわせた(かのような、ということかもしれないが)という当事者性が生じるのである。私にはそこには当事者性ということのウェブを通じた質的転換があるように思えてならない*1。これはたとえば、ウェブでしか知らないけれど知っている人が亡くなったときに私が感じる哀悼ととまどいのないまぜになった気分にも通じている新しい当事者性だ。
「降りる自由」や「華麗なるスルー」ももちろん可能だし、認められるべきだ。でもそこに撤退してしまうことのできないこだわりの部分が、今回の事件をエッポック・メイキングにしているのである。この点で次の二つのエントリーはまさにウェブにおける当事者性を意識したものとしてappreciateされるべし、と私は考える。

深い絶望を検知するそのソフトは赤木論文に反応するだろうか?
http://d.hatena.ne.jp/essa/20080615/p1

赤木論文から絶望を検知するソフトは民主主義の敵
http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20080615/akagi

*1:当事者性を極めるひとつの手段はフィルタリングだ。ウェブに撒き散らされている単語を精査することで、われわれはそこに存在する”彼”を発見しようとする。発見して警察に通報するにしろしないにしろ、そこにかかわりを強化しようとする。だからこそ予告inなんていうモジュールがいきなり出現したのだろう。

ローマの猫

ローマでやたらと猫がうろうろしていて、私なぞが相好を崩して遊んでしまい、出先に遅刻してしまう理由は、中世以来今でも有効な「猫保護法」なる法律があるためで、400ほどある猫保護施設および、街角で猫にエサをやるおばさん達が今でも公的な援助を受けているからなのだそうである。保護法が施行された時分はペスト予防のためのねずみ対策だったというが、2008年の今なおその法律が有効ってのがなんともローマというかなんというか。猫はスバラシイ生き物なので私としては大歓迎なのだけれど。