こりゃニュースだ

AP電を曲解した産経新聞古森さんの記事が、やっしゃんさん@美しい壷日記の指摘により公式に訂正された。経過はやっしゃんさんのサイトでどうぞ。→産経新聞が古森義久記者の捏造記事を謝罪訂正することに決定したよ

訂正前:占領時、米軍も「慰安婦」調達を命令 ホンダ議員「旧日本軍は強制」言明
訂正後:占領時、米軍も「慰安婦」調達を許可 ホンダ議員「旧日本軍は強制」言明

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ちなみにこの古森さんという人は産経新聞ワシントン特派員で、昨年8月にワシントンポストでクレモント記者に次のように指摘された記者。

What's alarming and significant about today's intimidation by the right is that it's working -- and that it has found some mutualism in the media. Sankei's Komori has no direct connection to those guilty of the most recent acts, but he's not unaware that his words frequently animate them -- and that their actions in turn lend fear-fueled power to his pronouncements, helping them silence debate.

右派扇動家という評価。今回のきわめて恣意的な記事の解釈も(米議会の従軍慰安婦非難決議案に対して、”アメリカだってやっていた”というのがよくある反論?なので、その傍証になるような恣意性)こうした経歴を考えればまあ、そんな人なのだ、ということになる。
付け加えると、上記のワシントンポスト記事に対して古森さんはそんなことはない、私こそ”良識”私こそ”普通”と怒って(日本語では怒っていたが英語では困っていた)ワシントンポストに釈明記事を掲載要求。長文だったので短くしろ、といわれてまた日本語で怒っていた。このあたりいろいろ私もウォッチしてたんで、以下リンク。

日本語による風景、外国語による風景
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20060829#p1
クレモント氏の記事について。
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20060901#p2
コモリ氏の反論
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20060922#p3
グレゴリー・クラーク氏、コモリ氏+イナゴに困惑
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20061120#p3

当時のhizzzさんのコメント欄でのクールな指摘はここで再確認しておいたらいいかな、と思った。

慣性情緒=共感な繋がりであり掲げるイデオロギー=論理は建前にすぎない所には、いくら外部/他者が「ウヨク化」と言っても、内部結束を強化するダケに終わり無意味なのです。ウヨ/サヨ双方共そのように言葉=論理を根本的に信用してないからこそ、「一致団結」というカタチ=ふるまいを表すことこそが重要な内部社会承認=精錬の美学であるのに、内部なクセにそれにケチをつける者はなによりも許しがたいということで、今度は排他/いじめのプロセスが進行します。
そのように「近代への抵抗」として「所有と実存」の方法論というウヨ/サヨ成立過程&運営は同じですから、実存的葛藤なしに「転向」はいとも簡単に起こるんですよね。それは自民党の派閥争いと同じです。更に、「現代への抵抗」として加わった「多様性/多文化」をどうするかで、自己決定の個人主義的自由追求か人体的自然管理として公共平等化追求かの論理展開の中で、そのどちらにも分けられない情緒的結合体の内面的緊張が表現されてるのかと。
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20060901#p2
コメント欄より抜粋

ことば

なつがきた。
Summer has come.

なつになった。
It's now summer.

ドイツではちょっとでも日がでて暑かったら夏だ。「夏がきた!」と言い交わすのがこのところの挨拶なのだが、「夏になった」というなんともたんたんとした、ああ、と空を見上げるような言い方がどうにも懐かしくてしかたがない。

不確かさと武術・科学

《武の技を練る稽古が、剣道における「地稽古」、柔道における「乱取り」という、模擬実戦の形態による稽古法では、慣れの延長線上である、ソフト面の発達以上のものが容易に得がたいことは、すでに述べたとおりですが、型稽古もたんに手順をおぼえるだけの形式に堕してしまったら、そこで養成される伎倆は、司馬氏が『北斗の人』のなかで書かれたように、「地稽古」「乱取り」によって得られる技術以下のものになってしまいます。つまり、型稽古は、それを行うものにとって、模擬実戦の稽古法にくらべ、遥かに高いレベルのセンスを要求されるのです。正直に申し上げれば、私は、そのことを近年になってようやく身にしみて感じるようになりました。そうなってから、あらためて、型の見直しにはいっています。》(『剣の思想』p68-69)
《私はとにかく繰り返し稽古して身につける基本の動き、というものに非常に懐疑的なのです。それでも学ぶ人は稽古しないわけにはいきません。ですから、私は稽古する時は、「これをやればいいのだ」などと夢にも安心して行ったりせず、常に自分の感覚の不確かさを自覚して、「それでもやらずにおれないからやる」といった気持ちで取り組むべきだと思います。》(『剣の思想』p191)
偽日記07/05/21(月)の引用部分より

科学と似ている。徹底的に型を仕込まなくてはいけないけれど、型どうりにやっていては科学にならない。でも型はやらんといけないのだよな。この場合「それでもやらずにおれないから」というよりも、不確かな自然界をうろうろとさまよい、最後のギリギリのところで型が出る、みたいな感じかもしれない。