三週間ぶりにフランス人のJとビール。近くに引っ越してきたので、家の間にある飲み屋で会えるのがなんとも都合よし。この三週間こんなかんじでさあ、と彼が2週間行っていたバレンシアのこと、ミラノのこと、私がいっていたイギリスのこと、映画の話。バッファロー66をみていないというので、いじめた。

 卑劣だろうか。

1995年にオウムの地下鉄サリンテロがあったときに、泡を吹いて倒れる人々を横目に人々は日々の業務へと急いだ。現場に居合わせた辺見庸は”またぎこして”とさえ形容している。

36歳男が特急車内で女性乱暴容疑 乗客、制止せず

車内レイプしらんぷり 「沈黙」40人乗客の卑劣

これを卑劣というならば、なぜあのときのことを人々は思い出さないのか、と思う。サリンではなく駅のホームで貧血でぶっ倒れ、頭がコンクリートのプラットホームにあたって鈍い音がした女性がいるのに何事もなかったように新聞を広げたままの通勤客や、某予備校の200人の生徒がひしめく教室で、癲癇で叫びながらもだえ始めたそのうちの一人を前に、シーンと静まりかえる教室を私は思い出す。これは卑劣なのではなく、単にその場にいる人が、それぞれの日常の慣性の強度に押し流されているだけなのだからだと思う*1。だとしたらそれは卑劣、というよりもそのような慣性に抗うことのできぬ理性(reasoning)を問うべきなのである。上記の強姦事件の現場に居合わせた人々を、そのことに対して行動をしなかったという点で非難すべきではない。異常を日常に回収する、あるいは異常であることを感じなくなっているという点にこそ焦点があてられるべきなのである。

現場というのは実に静かなものである。感情を掻き立てる音楽もないし、ヒステリックな解説もない。ヴァージニア・テックで学生がケータイで撮影した映像をウェブで眺めながら、その背後の学生の普通に談笑する声を聞いて、ああ、これだ、と私は何度も思った。阪神大震災の直後の静寂も私は思い出す。現場というのはそのようなものなのである。

*1:”慣性”という言葉も辺見さんが使っていて、ああ、そうだ、と思った。

卑劣であること

上で書いたような慣性は”事態の傍観”という受動的なものに限ったものではない。20世紀前半に日本軍が東アジア・東南アジアで行ったさまざまな暴虐に関しても今のわれわれからすれば36歳の強姦魔とたいして変わらぬことをしていたともいえるわけだが、少なくとも慣性という部分だけ抽出すれば「乗客」と「兵士」、その構造は共通している。われわれはかくまで雰囲気に飲まれやすい。軍隊という中にあり、侵略が日常となるなかにあれば、いとも簡単にその慣性に乗って上記強姦魔のようなこともするのだろう。あたかも傍観者である「乗客」のごとく。この暴虐に荒ぶるしかしながら単なる慣性をわれわれは身をもって今この瞬間に体験することは難しい。今の時点から見れば、それは度し難いことにほかならぬ。自分が「乗客」であったかもしれぬことにいたる想像よりも、もうすこし想像力が必要となる。しかしながら、「乗客」にしても「旧日本軍兵士」にしても慣性に乗っていた、という点においてあまりそこに差はないように私は思う。しかもその慣性をさして人々は「卑劣である」と糾弾してみたり、真逆の「そんなことをするはずがない」と歴史修正を行っている。なんともこっけいなことである。無言の「乗客」であった、ということはすなわち「そんなことがあった」ことの傍証に私にはみえてしかたがないのだ。