恋愛のテンプレート

エンジニアのフランス人、J君と茶飲み話をしていた。「最近宮崎駿にはまっている」とのことで、アニメの話をした。なによりもいちばんいいのはポッコ・ロッソだ、というのが彼の意見である(”紅の豚”のことである)。最近見たのは「耳をすませば」(だったかな)だ、というので、ありゃ東京都下のベッドタウンの風景でねえ、などと多摩ニュータウンのあたりの説明や、郊外化問題などの話をした。パリの郊外出身の彼には、この郊外の様子はよくわかるみたいなのだが、多摩丘陵に少々センチメンタルな思いもある私は、いやわかるはずがない、などとワガママいいながら、事細かに説明した。「海が聞こえる」の高知あたりのマッチョ男の話なども続いて雑談は進んだ。
いやそれでさ、おもしろいのはいいんだけど宮崎駿にかぎらず日本のアニメに一貫して不満な点がある、という。なんで恋愛がトピックにならんのだ、というのだ。なにー、と思って説明してもらったのだが、いずれの話も出会ってそれが恋になるまでの過程を描いているだけで、恋愛そのものの話がこれから始まるというときに終わってしまう、じつにもどかしい、という。確かにそうだ。熱愛中の恋人同士のストーリがアニメの中心テーマになることはない。あまり考えたことがなかったが、確かにそうである。
うーん、とちょっとだけ考えて、たぶん日本的には恋愛そのものっておもしろくないって思われているんだよ、もどかしさを楽しむわけ、と答えてみた。へー、とJ君は不可解ナリという顔をしていたが、あとで思い返してもその場の返答は結構あっていたかも、と思う。出会って、恋人同士になるまでのウジウジした期間が問題なのであって、そのあとは「幸せにくらしましたとさ」なのだ。ということは、恋焦がれる、がフォーカスされているだけで、恋愛そのものではない。
だから何をいいたいのか、ということではないのだが、日本にはもしかしたら恋愛のテンプレートがあんまりないのかもなあ、と思う。ぱっと思い出そうとしても、熱愛中のカップルそのものを扱ったアニメを思い出すことができない*1。小説にしてもあるかなあ。小説にしても、出会いから恋愛、恋愛から別れの両端はよくあるけれど、その間のメロメロ、というのはあんまりないんじゃないか。まあ、フランスみたいにたくさん用意しろ、とはいわないけれど。

*1:ルパン三世峰不二子ってのがあるか。でもなあ。

国際人として生きる

というわけで、蛇足。不勉強なワタクシの上記のごときアニメ観が正しいかどうかはさしおいて国際人として生きるには、日本に四季があるかどうかよりも、道徳の時間に上記のようなアニメを見ておいたほうが有益でございます。イタリア人と喋るんだったら、ルパン三世の知識があったら30分は話できます。なんてことを、”次代を担う児童・生徒には国際社会に生きる日本人として、世界の人々から信頼、尊敬されるよう、日本人としての誇りと自覚をはぐくむことが大切である。”との目的での研究報告をパラパラ読んで思ったのだった。

研究主題「国を愛する心を育てる道徳の時間の指導の工夫
〜 児童の国に関する認識をてがかりとして〜 」(PDF)

このPDF、黒川滋さんのサイト「きょうも歩く」の06年11月13日付記事で知ったのだが、ちょっとすごい。東京都教職員研修センター公式の研究報告書だけれどいわば洗脳の話。まあ、それにしてもこれからの初等高等教育の先生って大変だなと思うことしきり。虚妄をそれっぽくおしえなきゃならんのだから。