「うまいものは食うべき」、のサポーティングエビデンス

インターネットにはまり過ぎると、身体性が失われるという懸念をしばしば聞く。身体とは、近いコミュニケーションを行うためのインターフェイスである。ネット時代に身体性を取り戻す最も効果的な方法の一つは、身をもってしか体験できない、おいしさの奥深い世界に真摯に向き合うことなのである。
おいしさの解剖学 7回 茂木健一郎

次の瞬間のワタクシは他者

認知においても認知することが認知の形成になるようなことが発生しているというのである。どういうことか。新たな認知を形成する運動に入っている場面では、もはやそれ以前の認知の状態に立ち戻ることはできなくなっているということだ。認知の形成運動はすでに自らの認知を作り変えてしまっているわけだから、それ以前の仕方で認知を対象化(記述)することはできないのである。知覚、認知、行為は、いわばひとつのセットになって「メタモルフォーゼ」という形成運動をしている。そうした機構をオートポイエーシスと呼んでいたのであった。
河本英夫 『メタモルフォーゼ オートポイエーシスの核心』  評:佐藤真(アルシーヴ社)

このあたり、あまりにあたりまえのことだと思って私は日々過ごしているのだが(だから宵越しの金はもたない、ような生活をしているわけでもないが)、考えてみると生体内即ち自己の内部のダイナミクスをリアルに感じたり解釈しながら生きている人なんてたぶん理系の研究者ぐらいなんだよなあ、と思い当たる。なおかつ思わずこのミクロダイナミクスをfrom left to rightのマクロなダイナミクス*1に接続して考えたくなってしまうのだった。

*1:"〈私〉の束=〈私〉的共同体=習慣的地域文化からハミだす(ハミださざるをえない)自己が、「震えるような不安」をもたらす"@id:hizzzさん

蝦蟇の油

まるっきりでたらめでもないようだ。オーストラリアのカエルのヌルヌルが膝の軟骨修復につかえるらしい。これまでにも羊の膝の治療に使われていたのだという。そもそもこのネバネバ、襲ってきたアリをトラップしてあとでそのカエル自身が食すという、なんとも巧妙な捕食装置なのだとか。