「母国語の呪縛の外へ」(id:Ririka:20031102#p1)に関して思ったこと。
[id:flapjack:20031101#p2]経由。

感性・思考という部分でいえば結論は言語非依存ではないか。そうでなければ文学の普遍性はありえない気がする、と大上段だが、要は翻訳文学を否定することになってしまう。なんで私は日本語でミラン・クンデラを読んで熱中してしまい、しまいには感動さえするのか。日本語でトマシュの思考をなぞることができないならばあの本を私は読まなかったことになる。「存在の耐えられない軽さ」は英語でも読んだのだが、感動はかわることがなかった。

こうした個人的な印象の導出過程は言語によらず一定の結論に到達するように思う。しかし、コミュニケーションの効率と精度には言語依存性がある。その結果、複数の人間の議論の場合は結論が言語依存的にかわってしまうことがあると思う。

建築が良い例になるのではないか。ドイツで仕事している知人の建築家(日本人)によると、ドイツ語は建築方法を指示する時に、とても正確な表現をすることが可能なのだとか。したがって、実際に建築作業をする人に、建築家の意志が効率よく正確に伝わるのだ。付け加えれば、実際に作業している人間同士のコミュニケーションの精度と効率も言語依存的である。

建築家の頭の中には、建築物の確固たるイメージがあるかもしれない。しかし、実際に建つ建築物という共同作業の結果は言語(コミュニケーション)に依存する部分がおおい。変わる可能性があるのだ。すなわち、結果には言語依存性がある。

同じことが数学における数式という言語でもいえるのではないか。他人に説明するには数式の方が正確かつ効率的という歴史的な経験は確かだし、そのことで可能だった展開がさまざまにある、という点は明白である。

言葉を積み重ねていくような建築的な作業を一人の思考で(「畳み込み思考」とでもいおうか)行う場合には差が生じるかもしれない。基礎に近い部分での小さな差が、尖塔部分の傾きの大きな違いになってしまうかもしれないからだ。あるいはよほど精度が悪ければ、尖塔を積み上げることさえできない惨状も想定可能だ。しかし私の知る限り、日本語はそれほど精度の悪いものではない、と思う。日本の建築が欧米の建築に劣るとも思えない。

私の場合は英語の作業をしているときには英語で考える。日本語の作業をしているときには日本語で考える。それで不便はないし、切り替えにあまり問題はない。ただ、おもしろいな、と思ったのは日本をドイツ人の友達と一緒に回っていたときのこと。たまたま仕事が日本であり、仲間のドイツ人を案内することになった。レンタカーを私が運転して関西を巡った。彼らといろいろな議論をしながら散歩し、喋りつづけながら駐車場に停めた車に戻ったときに私は左側のドアに手をかけていた。当然そこには運転席はなく、友人は笑い、私は頭をかきながら反対側に回る。ドイツで毎日車を運転しているからクセがでた、ということになるかもしれないが、日本に年3回以上私は帰り、そのたびに右ハンドルの車を運転するが、一人でいる場合、あるいは日本語を喋っている状況下ではこのような間違いをすることはまずない。こうした「切り替えの不具合」を経験することはあるものの、車を運転することそのものにおいてはあまり本質的ではない。英語やドイツ語を喋りながら日本を運転していても目的地にはたどりつく。目的地がはっきりしている場合、思考ツールの差は単に効率の問題でしかないようにも思える。

イラク情勢はますますベトナム化している。

ベトナムではなくカンボジアにおけるポルポト政権の映画であるが、先週末、たまたま「Killing Field」を見た。10年以上前にも見ているのだが、クメールルージュの大虐殺は何度聞いても理念型の思考のあやうさを感じさせる。台湾における蒋介石にしろ日本における赤軍派にしろ、論理を突き詰めて狂った粛清を行う。西洋型の神がいないアジアに西洋型の論理を突き詰めると、こうなってしまうのだろうか。

一方でいいたかったのは、今この時期に見るとイラク情勢が重なって見えて仕方がない、ということだ。アメリカは何度も同じことをしている、と私は半ばあきらめ、半ば絶望する。報道をコントロールしようという姿勢も、全く同じなのである。今この映画を全米で再上映すべきではないか、と私は思う。

Killing Field
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8442/research/cambodia/munen.html
http://home9.highway.ne.jp/timtamie/travel.files/Rep/others/killingfield.htm

以下、この一日のイラク情勢。