承前「反日上等」

"記号化によって自ら否定してる物に実体を与えてる"

けだし名言。はてなブックマーク界隈におけるの鼻つまみ者と目される、Midas氏のメタブコメントである。名言続出の大蟻食ブログー難破船周辺でもうひとつの名言が生じたのは必然である。しかしながら「反日上等」もなんかそんなことではなかろうか。ゆらぐアイデンティティはそのままにしておいてほしい。ゆらぎっぱなしでなにが悪い。 00年代のアズマン島宇宙よりもはるかに歴史のある揺らぎである。たぶん私はそのようなことを言うために以下を書く。
反日上等」をめぐってid:Romance さんにトラバももらったことだしヒトコト書こうと思っていたのだけど、なかなかうまくかけず逡巡しているうちに時間が過ぎた(一ヶ月ちかい)。排外主義を批判するうえでは人後に落ちずという論者の方々の間で論が対立しているみたいだけど、私の眺める限りではその差はあまりないように思えるし、「反日」とはなにかという定義の面でのすれちがいに起因しているようにも思える。最初のプラカードは一枚だった。以後ネット上で始まった議論は錯綜した。現場で一枚のプラカードがあることのの妥当性と、ネットでの議論としての「反日」そして「反日上等」がうまく峻別されなていなかったと私は思う。これまでのところ、わたしにとってのこれ、という記事はこちらである →(http://d.hatena.ne.jp/m_debugger/20090729/1248794009)。長い記事だが、内面化された部分をも含めたゼノフォビアの問題を明確にするにはこれだけの長さが必要なのだと思う。一点、リンク先の筆者と異なるのは、それを踏まえたうえで私はネット上で「反日上等」とやりかえすのはまずいな、と思う。そのような構図が作られてしまうことがマズイ。たとえば排外主義を批判するはてな界隈の人々の間で"show your flag!"みたいになっている。これこそが「反日/反日上等」二項対立の隘路。いいんだろうか。とおもっていたら、この部分を明解にした見事な考察が近日登場していた。
お題はすこしずれる。「反日上等」を巡るやりとりは、そもそも京都で在特会に対して行われたカウンターデモにおける一枚のプラカードの話である。件の在特会は8月の最初の三日間、東京三鷹慰安婦に関する歴史の展示会に出現していた(しばらくまえには、展示ホールを先に予約して邪魔してたが、こんどは展示会場のまえで妨害)。フィリピンの慰安婦の展示会なのに、「朝鮮人慰安婦が強制連行された証拠をみせろ」とか演説しているらしい。実家が近傍なので両親にいってみてくださいと頼んで足労をかけた。小烏丸さんは入れなかったと残念がっていたけれど、フィリピンに関係がなくもない実家はすぐにいれてもらえたとか。で、展示会をでたところでもはや知る人の間では有名になった罵倒の嵐。いわくゴウカンマ、いわくインバイ、いわくチョウセンジン。参加者の老人が殴られて出血の事態という記事を眺めたときには、両親を行かせたことを後悔したが、その両親からのメールには、在特会のひとたちはいかにも貧しく無知な人たちで、彼らみたいな人たちはいままでもいた、カルト宗教団体みたいなものだ、とあった。また、貧しい故なのだからかれらを糾弾してもしょうがない(下部構造云々)、ということだった。そのメールを読みながら、そういえば日本の街宣右翼とかやくざには日本でマージナライズされた被差別者や貧民が多いんだよな、ということをあらためて思い出した。マージナライズされた人たちが大仰に日の丸を掲げたりしてしまうことには理由がなくもない。
”日本国内で日本人であること、には矛盾がある。だれもが日本人であるならば、それはとりたてて主張すべきことではないのだ。すなわち、あたりまえのことなのである。したがって、一人一人が「日本人である」ことを日本人に囲まれた状況で確認するには、いわば「日本人度」のような基準が必要になる。日本人同士の間でいかに自分があるいは他人が日本人であるか、を評価しあう必要が生じるからである。点数制にするとすれば例えば10段階評価。「空気が読める」でプラス0.5。「国旗に最敬礼し、ことあるごとに門前に日の丸を掲げる」でプラス1。「君が代を公衆の面前で堂々と歌うことができる」で、プラス1。こうしてそれぞれの日本人には、点数が決定される。殿堂入りの特別扱いは最近の国会議員も主張しているように「国のために血を流し命を捨てることができる」人。こりゃもう、10点じゃ足りない真性日本人ですね、ということになる。人々は互いの点数をくらべっこして、8点の人間は5点の人間に向かって「反日」と呼び捨てにし、5点の人間は0点の人間に向かって「非国民」と罵倒する。殿堂入りは、ホントに殿堂入りしてヤスクニ神社に奉られることになり、国を挙げて日本精神の本尊としてあがめることになる。そんな日本人内部での差異化装置がないと、日本で「日本人」であることというのはとても難しいことになるのである。"日本人入門 Sept. 24, 2006
日本人度スケールにおいてマージナライズされているからこそ、日本人度スケールにはまってしまうという逆説の生き方がある。「反日」連呼とはそのような面が強くあるのではないか。単なる非対称ではない襞の数々がある。だとしたらやはり、私は思うのだが「反日上等」と返すのではなく日本人度スケールをあっさりと相対化させなければいけない。ひっくりかえさなばならない。”否定の実体化”で悦にいっていてはいけない。星一徹にならうちゃぶ台返し。いかにちゃぶ台返しをおこなうか。
お題はさらにずれる。「美しい日本」系の排外主義者の話。かねてよりの差別的発言、外国人=犯罪者と語ってはばからない問題ある国会議員候補者、城内実による眞鍋かをり肖像無断使用ポスター、および無断で「応援メッセージ」作成の件。Kojitakenさんのコメント欄に私見を書いたらしっかりととりあげてくれた。日本の新聞は事務所が「無断」だったかどうかとか、事務所と真鍋の対立が、なんてしたり顔で業界裏話的に報道するが、そんなことは本質ではない。問題の中心は、ひとりの人間がある国会議員候補者を支持するかしないか、ということは、その人間のアイドルとしての契約や職業とは無関係という点である。本人が「支持していない」というのに「でも事務所が許可した」と反論する城内実という静岡七区候補者の議会制民主主義に対する感性は、国会議員立候補者として注目すべき劣度である。タレントは事務所の奴隷とごく自然に思っているのだろうけれど、あるいはこの人にとって、金で票(ないしは支持)が買える、ということがあまりにも自然なのかもしれない。はたまた日本に長い伝統をもつカブキモノ差別でもある。炎上したブログのコメント欄(2000以上投稿があった)で支援者の一人が城内実氏は以前掲示板「2チャンネル」の憂国の士ともども政治活動したという告白を投稿しているが、かの自称国士のザ・エリート政治家は、かくしてマージナライズされ日本人度スケールにすがる人々を「信念」に基づいて利用しているわけだ。呼吸のような差別、<癒し>の排外主義の息遣いがそこにはある。