応答

sivadさんにトラバしてもらった「空気の実装」について。システムとしての空気ならばもはや空気じゃないよなあ、と思ったり。どちらかというとまさにこれか。

私たちは舞台シーンの前にいるのではなく、私たちはそのレゾー(ネット・網・組織)なのであり、レゾー自体なのだ。メディア権力の現在のヘゲモニーは圧倒的であり、スペクタクルによる支配ももはや存在せず、それはある種の均質性の触手であって、帝国主義でさえない。そして私たちは内部に沈んでいる。グローバルなスクリーンの中にいるのだ。
2005年5月28日 ボードリアール / 猫屋さん翻訳

均質性の触手の対偶にあるのが恣意性と突発性。その両面がはてなブックマークという現象にも見える。それおととい説明しましたってな内容をたとえば本日のブックマークのコメントで批判されると、馬鹿ですかと思ったり断片化の時代だししゃあねえな、と思ったり。まあ、均質化・断片化の恐怖は「複製技術時代の・・・」からあったわけで、でも断片化されえないものも、いわば「語りえぬ対象」としてあるわけでおそるるにたらず、批判するほどの話でもない、と思ったり。テキスト(織物!)の巧みな人間が技術以前の下部構造ということは、ミュージシャンがいなけりゃDJはありえない、というのと同じ。いやはやワタクシは実に単純な理性の信奉者であります。