自分の中の異世界

内視鏡いわゆる胃カメラで胃の診察を受けた。二度とごめん、という経験者の話はきいていたので興味しんしんだったのだが確かにかなりつらい診察だった。訪れた消化器科の医院はかなり忙しい雰囲気の場所だった。バタバタと看護士が走り回る中で名前が呼び出され、第二次世界大戦の映画に出てくるドイツ軍スナイパーのような目つきをした痩身の医師がひととおり私の症状を聞く。では内視鏡、ということでその同意書にサインし、麻酔をかけるか否かを聴かれる。麻酔はあまりすすめないけど、と言葉も短く私の返答を待つので、あ、いいです、と答えた。即座に私は診察台に乗ってくださいと告げられ、ゲップを和らげるという薬を飲んでスプレーを喉に噴霧され横たわる。この薬ウォッカみたいな味ですね、と冗談めかしていったのだが、医師はにこりともせずにすばやく内視鏡を取り上げる。げ、こんな太いのかよ、と私が思ったのは以前研究所に、これ使ってみませんか極細の内視鏡を開発したので、とやってきた業者のデモで見たそれは鉛筆の芯ほどの太さだったからである。しかしながら目の前にある私の喉に今まさに入らんとしている内視鏡は万年筆の径を持っている。まじですか、というまでもなく口にはレクター博士が装着していた拘束具のようなプラスチックの輪が嵌められた。目の前にあるモニターのスイッチがオンになり、左を下に横向きに寝た私の肩を看護婦が抑えた。
モニターに私の口蓋と舌がアップになる。ためらいもなくカメラはその奥にある暗がりに突き進み、次の瞬間喉にぐりぐりと進入してくる異物を感じる。喉がうげっとなりそうになるがなんとかこらえて、モニターをみつめると、どうやらカメラは食道に進入してる。きれいなピンク色のつやのある回廊。自分の食道なぞもっとおどろおどろしい色をしているのかと思ったのだが、なかなか美しいではないか、と思う間にもカメラは進入し続け、私の喉はなんとか異物を除去しようとむせる。そのたびにモニターの画面も激しく揺れる。スナイパー氏はこのあたりからやたらと饒舌になりはじめる。普通に息を吸ってください、喉と気管は別の管ですからね、力を抜いてください、さてー、噴門がみえてきましたねー、もうすぐで胃ですよー、はい入り口、む、噴門の横に小さな潰瘍があるみたいですね、まあ、だけどこれはそんなに心配ない、うーむ、はい、胃に入りました、力を抜いてください、と立て板に水である。一方で私は圧倒的な喉の異物感に愕然としつつそれでもなんとかモニターを眺める。胃に入ったところで私は胃液を吐いた。でも垂れ流し。カメラが胃に入るとスナイパー医師の言葉は高潮した。
おお、やはり内視鏡はすごいですね、ごらんなさい、これは明らかに潰瘍。ほらここ、ここです、と私にいうのだが、私はなにしろ返答することができない。指し示された部分には、唇の裏側にできる口内炎のような白い陥没部がある。なるほどこれが潰瘍か。と感心しつつもふたたび胃液が逆流。カメラにうつしだされる胃液の奔流。それをみる私はますます気持ち悪くなって少々嘔吐。それがおさまると再びスナイパー氏は解説をつづける。胃壁にほらこんなにも出血の跡が。みればたしかにあちらこちらにコマグカップにのこるコーヒーの筋のような黒い線があちらこちらにある。結構出血があったみたいですねえ、とカメラは胃の中をパンする。あ、ここにも、と二つ目の潰瘍を発見。内視鏡をしてまったく成功でした、実に重要な技術です、などとスナイパー氏はコメントする。つづけてバイオプシーです、といいながらスナイパー氏は内視鏡の管にワイヤーを入れ始める。たちまちのうちにワイヤーの先端がモニターに現れ、潰瘍部にその先端を接着させる。気のせいか痛い。同時に激しく胃が抵抗し、胃液の奔流。いいかげん私は苦しくてスナイパー氏の手を押さえ込んでしまった。ダメです、おさえないでください、と厳しく注意され、私は自分の頭を代わりに抱える。ワイヤーは取り出され、8穴のシャーレに入ったおそらく緩衝液に浸してサンプリングの一回目は終了。サンプリングは4回ほど続いた。早く終わってくれないか、と思ったのは二回目で、さらに続く二回は拷問に近かった。カメラが後退し、食道が再びうつしだされ、ずるずると喉から異物が出て行く妙な感覚を味わいながら、あー、と思っているうちに検診は終わった。
虚脱した状態で待合室に座り、20分後にふたたび呼び出された。簡易的なヘリコバクターの検査をしたんですが、ないみたいですね。うーん。まあ、精密検査の結果が木曜に上がるのでそれまで待ちましょう。ヘリコバクターが見つからないのが妙だ、というのはまあそうなのだろう。2005年にバリー・J・マーシャルがノーベル医学生理学賞を受賞したのは、ヘリコバクター・ピロリ菌が胃潰瘍を引き起こすことを発見したとういうのがその理由で、その仮説に説得力を持たせた自らの体を使った人体実験についてはジェンナーのごとき武勇伝としてよく目にする話だ。しかしながら、胃潰瘍の原因は100パーセントピロリ菌というわけではない。7割がピロリ菌によるものであり、私なぞはそもそも不摂生が理由なのはわれながら明らかである。