寂寞なれど孤独に非ず。

アーレントは「見捨てられていることは一人であることと同じではない lonliness is not solitude」と書いている。

オンライン日記2月17日(木)19時44分34秒付。"寂しいけど一人じゃない"、ってことで"見捨てられている"ってのは踏み込みすぎのような気がするが、

個と個の共同性はアプリオリにありえるわけではなく、個と個を横断する共通の話題を作って行く言論の成立を前提条件とする。

は、そうだろうなあ、と思いつつも、でもアプリオリな部分もあるかもなあ、と思ったりする。ない、というのは血だ民族だ、の反対側に位置するわけだが、たとえばふられた男を慰めるときに感じる深い同情はアプリオリなんじゃないか、と思ってしまう。その男の深い絶望になりかわることができないにしても、私はうおー、大変なのだろう、つらいのだろう、と思う。でなければ、これまた例えれば翻訳文学が売れるはずがない。同じ理由で世界あちらこちらのバーの片隅で、どこぞの男がアレサ・フランクリンにうるうるしている。「朝起きたら心にブルースが入っていた そして男から電話があった 俺たちもうおわりだね」。うるうる、である。
それにしても私はオヤジになりすぎて、寂しい、と思うことがすごく少なくなってしまった。寂しいと思う前にすでに飲みだしているないし友達を呼び出している周到さがオヤジ。