Futon

ドイツの大きな街を歩いていると、Futonと大書された店に出くわすことがある。言葉そのまま、蒲団が売っている店だ。掛け布団はどうでもいいのだが、敷布団がここでは問題の中心となる。日本人が慣れ親しんでいる蒲団とはだいぶ違っている。店の中に入ると、壁には蒲団の断面図ないしは立体模型が掲げられ、なにやらさまざまな材質の素材が何層にも重なっていて、綿、羊毛、ラテックス、ポリエステル、ココナッツの樹皮など、固さや厚みをさまざまにコントロールするために工夫を凝らしてレイヤーがデザインされている*1。店員は長々とその効用、メリットとデメリットなどを説明し、客は固さや好みに応じて複雑な選択を迫られることになる。Futonと呼ばれ、日本カルチャーの真髄の一つとしてあがめたてまつられているのではあるが、それはもはや蒲団ではない。欧米的な合理主義に基づいて変異した蒲団以外のなにものか、なのである。ピザをめぐる状況とよく似ている。アメリカで売られて愛されているピザはイタリアのピザとだいぶ様子が違う。あるいは、ラーメンだろうか。中国におけるラーメンと日本のラーメンは名前こそ同じだがほとんど別物である。握り寿司も似たような状況になりつつある。sushiは寿司ではない。
最初に私がFuton屋を訪れたのはドイツ人の友人に「蒲団を買いたいのでアドバイスしてくれ」と言われていそいそと同行した時だった。上記のような店内の状況に私は言葉を失った。これはフトンではない、と思わず口からでそうになったが、自信に満ちたな調子で日本の蒲団のすばらしさについて述べる店員の前で、「だけどこれは蒲団ではない」と私がいうのはあまりに梯子外しではないかと思われ、私は憚ったのだった。友人に私はそっと、これって日本にはないフトンだからさ、と耳打ちしたのだが、幸いなことに友人はあまり聞く耳を持たず、これがいいかな、などと勝手に決めて私がいいんじゃない、というや、そのまま購入した。ちなみにそのfutonは未だに使用しているそうだ。
かくして、今度は私がFutonを買うことになった。腰痛対策のためである。以前ほどの不自然な印象は私にはない。ひとつには姉が”日本の布団と違って、Futon(Fu-tonと、fuに強勢を置いてシラブルがはっきりするように発音する)は手放せない”、と常々コメントしていることもある。私の住む街に店を発見したのでそこに行ってみた。大きなアトリエのような店で、Futonを作成している工場の脇に販売店がある。一人しかいない店員に例のごとくFutonを構成するさまざまなレイヤーについて長い説明を受けた後、実際にさまざまなスタイルのレイヤーの上に寝転んでみる。店員は布団作成も兼ねて仕事をしているとかで、彼がFuton屋になった経緯などを聞いてみた。20年前のドイツ、たった一軒だけfuton屋がハンブルクに存在しており、彼も22歳の時にそのfutonを買ってみたのだそうだ。そのすばらしさを理解するや否や、自分でもっとよいfutonを作ろうと思いたって、以来二十年、futonの改良に精を出してきたそうである。腰痛の私に彼が推賞したのは、馬毛4キロ、綿、羊毛1キロからなる5レイヤーのfutonだった。ラテックス入りのものかどちらかだ、というので寝比べてみたところ、ラテックス入りのものの方が体に形状が沿ってしまうのでどうもダメっぽい。今のベッドの問題は、腰が少し落ちてしまうことなので、しばらく寝転んだまま考えた。吸い込まれるように寝心地がいい。ラテックスの入っていないfutonを買うことにした。ややこしいことに注文作成なのだそうで、木曜日まで待たなくてはいけない。近所なので配達してくれるそうだ。帰り際に彼は冗談めいた調子で言った。「日本人なのにドイツでフトンを買わなきゃいけないなんてね」。あー、だからこれは蒲団じゃなくてfutonなんだって、とは私はいわなかった。

*1:このあたりこのあたりの様子から推察していただけるかもしれない。"オーガニック・フトン"なんてすごいことにもなっている。