消費と平準化 続き

慧眼。
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こーしてアバウトに見てみると第二次大戦以降わかれた管理的社会科学主義システムとアメリカン・ウェイ・オブ・ライフは、ひょっとしたら「標準化」という観念の表と裏でしかないのではないかな。

ソ連(ロシア)人とアメリカ人って、往々にしてガサツ・よれよれの服という点がよく似ている。ウォッカとウィスキーの違いはあるけれど。

食事も生活エネルギー供給のひとつと考えれば、スーパー&コンビニ&100円ショップの立地条件はライフラインとして重要になる。
身もフタもない言い方をすれば、慈善と平等と自我意欲に燃えた家政学は、家事合理化のハテの家事労働の消滅=TVディナー&個食に結実する。家庭から「労働」を追放して、さてナニがのこったのだろうか。労働を商品として消費するユートピア、答えは「余暇」である。

ウィーンのカフェの発達はそもそもが暖房費の節約で朝っぱらからカフェにいっていたからなのだそうだ。余暇を駆ってカフェはコミュニティとして発達したが、コンビニはどうもそうでもなさそう。生産は極小に、消費は極大に、という豊かさが本来であるはずと私は考える。というよりも私はそうありたい。平準化は消費速度だけを効率化している。なにしろコンビニエンス、なのだから。ああ、ここでも私は何か、人質にとられているような気になる。「国を想う、国を創る」というスローガンを聞いた瞬間に、およよ、と困った。私の祖国愛が人質になったから。コンビニでは何が人質になるのか。たぶん二日酔いの頭痛だ。私はポカリスエットを求めてフラフラとコンビニに紛れ込む。