自衛隊の位置

自衛隊そのものへの批判はその行動における戦術的なミスに対する批判だけが意味をもつ。そしてこの批判は政府の国家戦略に対する批判ときっちり分けて行わないと、黄色いハンカチがそのまま日本国家のロマンチズムに憑依する。

id:flapjackさんの”危機を「望む」”や”自衛隊のサポート”、及び先日私が書いたことに類する1月の中東TODAYの記事、「自衛隊派遣への日本人の反応」

 自衛隊員に対する思いやりからなのか、イラク国民の気持ちを代弁しているのか、あるいは単なる小泉政権に対する批判なのか、、、。

中略

この話を語ってくれた友人は、「自衛隊員にとって一番つらいのは、マスコミや日本人や政府の彼らに対する対応ではない。自衛隊内部の彼らに対する対応なんだよ。つまり、派遣される自衛隊員、派遣から帰ってきた自衛隊員をどう日本に留まる自衛隊員が送り出し、迎え入れ、受け止めてくれるかなんだ。」と結んだ。

  • 補遺 -

軍事戦術と国家戦略がますます区別しにくくなっている。指揮系統の効率化が、軍事と政治のリアルタイム・リンクを可能にした。ましてや戦争の姿は非対称な暴力(cf. 緑の資本論)なのであり、現場指揮官の戦術的な裁量は、デモの群集に対して発砲するか否か、といった、日常に瞬間的に紛れ込む非日常における裁量でしかない。だからこそ日本自衛隊が国家戦略そのものの化身となる。自衛隊に対する両サイドの期待はいずれにしても、象徴的なるもの、id:flapjackさんの言葉を使えば、それぞれの立場のための「コマとしての自衛隊」に収束するのだ。

こうしたバーチャルな空中戦、というか妄想戦が日本で繰り広げられる一方で、日本の軍隊が曖昧さを抱えてイラクにいることは現実である。それは昨年からのイラク戦争の縮図でもある。根拠もあいまいなあままにとりあえず、軍隊を現場に放り込む。軍隊が存在することでその場になにかが起きる。それを待ち、象徴として転用するという国家戦略。2003年度のタイムのマン・オブ・ザ・イヤーは「イラクの兵士達」だった。

こうした手法は軍当事者にすれば不快な話だろう。なにせ軍隊という即ち指示命令が行動原理、という集団に対して、「タマうちゃなにかが起きるだろう」という不確定性そのもの、あいまいさそのものによる状況の展開を望んでいるのだから。米国でも軍側を代表するパウウェルと、ネオコンという政治家集団との対立の、そもそもの原因はここにあった。たたき上げの将軍出身、パウエルは極めて現実的な兵士兵器の大量投入、という戦術を主張したのだが、却下された。また、アナポリス軍事学の教授がイラク戦争を批判したことも記憶に新しい。

同じ構図を縮小した形で日本は反復している。派遣論者はその先に「普通の国」及び、「鉄の日米同盟」を夢見る。派遣反対論者はその先に、世論によって首相の座を引き摺り下ろされる小泉の姿を夢見ている。いずれにとっても、自衛隊員及び現地のイラク人はコマでしかない。