id:flapjackさんのコメントに。戦術として、手続き論はもっともだな、と思います。抽象的どころか実に具体的だと思います。宮沢元首相もそういえば、手続き論に類することを言っていましたけど。でも私が3月以来の10ヶ月で受け取ったのは、もうそうしたフェーズではないんだろうな、ということです。この数週間で私の中ではそれがピークに達してしまった。法的基礎付けのないまま日本は派兵し、何人か死んで、やはり法的に整備する必要がある、というあまりに典型的なプロセスがこれまでどうり踏まれるだけでしょう。中曽根元首相に至っては「腰が入っていてよろしい」とわけのわからん小泉絶賛をしている。たぶんここで派兵に関して手続き論を主張しても歴史のなかでそうした正論を主張していた人もいたが、ということになるだけではないでしょうか。

こうした正論が必要なことは確かなんですが、非線形力学とかカオス理論でいう「分枝」の大きな分岐点をすぎた、というのが私の見方で、そうなったらもう個で立場表明するしておくことがまずは基本なんだと思っています。オウムのためにサリン生物兵器を製造した科学者がいたように、日本のために、テロを撲滅するために、あるいは米国のためにそうした兵器を開発する科学者が、正当化されていくでしょう。なにせ国益のためテロ撲滅、なのですから。私はこれからそうした立場になるかもしれないことを恐れます。ベタながらインターナショナリズムを持ち出したのは、そうした状況の中では自分の立場を原則に戻すしかないな、と思ったからです。

それにしてもネットを見回していて当事者感覚の喪失ぶりには驚いてしまう。ニュースで終わらせていいのか。辺見庸が1995年のオウムの地下鉄サリン事件があった時にたまたま現場にいて、そのときの現場の様子をとても印象深く描写していたのを思い出します。倒れている人をまたいで会社に急ぐ職務に忠実な人たちばかりだった、という話。あるいはその周りを円形に囲むメディアもまた職務に忠実だった、という話。なんでみんなこんなに行儀がいいわけ、と思ってしまう。id:solarさんがいっている1985年の切断、その後の状態ってまさにこのことなのかな、とはてな周辺を見ていても思いました。例えれば地震が起きているのに、テレビのテロップ見て「あ、地震だって」っていっているような感性。