"ソリューション"

ケーキを売ればいいのに - 福耳コラム
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127

"ソリューション"って単語、人が相談しにきたときに自分でも時々使っているのに気がつく。目下のあなたの系の限界はかくかくしかじか、一方我々に可能なメソッドはかくかくしかじか、だとしたらソリューションはかくかくしかじかなりけり。
けど、かくなる言葉を使いながら「けっ、そりゅーしょんだってよ」と自分をあざけっている心の中の自分がいたりする。システムとアプローチの可能性をバランスさせてバーター取引。世界、自然現象は複雑で、”ソルーション”=解、なんていっても所詮シノギじゃん、と思ったりするから。”トリアージ”(この言葉は初めて知ったが)よりもこの手の問題なんじゃないかなあ。若い人は心臓に毛が生えていないので、私の場合だったらシニカルに自分を笑っている部分が「かわいそう」として表象されるわけで、あまりかわらないな、と思う。

 トリアージ、進化論

2001年以来、国家をテロとの戦争状態に見立てることが流行しているのだけれど、そうした見立てのもとでは、「トリアージ」は実によくフィットする判断基準だと思う(hokusyuさんの記事)。

今現在、四川省で、あるいはかつて福知山線の事故で救急救命にあたった医療関係者にたいしては、当然敬意が払われるべきです。しかし、われわれは同時に、このトリアージという概念が戦争における技術的価値観から生じたものであり、トリアージはけしてその矛盾から逃れることは出来ないということは忘れてはなりません。

戦争・競争ということでいろいろなものにトリアージなるライフハックを適用するのは、社会問題にダーウィンの進化論を無分別に応用しようとする態度にどこか似ている。
神は確かに無情である。でも淘汰された恐竜に一抹の悲しさを思うのもまた不思議なことではない。また、今淘汰されつつある種を救わなければ、と思うのも不思議なことではない。要は教えるときにこれは「かわいそうかかわいそうでないか」という判断軸を保留したシステムの駆動メカの話なのである、とひとまず教えることではないだろうか(…と書いていて、これって先日あった「記号論学会」の話と似ているな、と思った)。経営学を教えて「競争で負けた百貨店がかわいそう」と学生にいわれ、救急医療におけるトリアージを解説して「人権侵害では?」と抗議されるのは、進化論を教えていて「恐竜がかわいそう」と学生にコメントされるのに似ているかもしれない。経営学における”競争”は学生にとってアクチュアルな目前の問題ではあるけれど。
システムはそうなっている。ではそこに生きる人間はいかにあるべきなのか。この疑問への回答は経営学や進化論の枠を超えている。あるいは超えてはいけない。この点を謙虚に学生に伝えればよいのだと思う。

[追記] 自動トラバが通っていない。怒らないでください。はてなのせいです。