自由と秩序
人間社会において個人の自由と社会の秩序は反比例*1するのだろうか、と考えてみると、そうじゃないだろうな、と私はなんとなく思う。下の図でいえば、青のカーブが自由と秩序が反比例の関係だ*2。社会の秩序がなくなればなくなるほど、人間が自由になるというモデル。クラッシックな無政府主義はこんなモデルを想定しているのかもしれない。でも実際の社会を考えてみると、無秩序な社会では人間はあまり自由ではない。適切な例ではないかもしれないが、米軍が侵略した結果秩序が低下したイラクを思えば、そこに住む市民は好かれ悪かれ秩序があった侵略前よりも移動の自由、思考の自由はそれを保障する最低限のシステムが劣化したために自由度は低下しているだろう。山賊夜盗の跋扈する世の中では普通の人間は家でじっと息をひそめる、というような状況である。
そんなわけで、自由と秩序の関係はおそらく上の赤のカーブがより現実に近い。秩序がなさすぎれば、非社会的、反社会的な圧力がつよくなりすぎて不自由になるし、秩序がありすぎれば社会の構成力が強くなりすぎて不自由になる。個人にとって最大自由の状況はその間のどこかにあるのだろう。ブラウン運動のような拡散運動にしても、拡散に対する影響は二つの形で観察することができる。拡散する粒子の密度の影響、拡散の媒体の粘性や温度といった状態の影響である。これは上のような状況にどこか似ているな、と思う。
rnaさんが書いているのはそんなことだな、と思った。その内容についていえば、原発の無事運営という点でワインバーグのいう社会の安定性及び、それに対するユードルのいう”反乱”は、かなり高度な社会秩序の安定性の話であり、上の赤いカーブでいえば、右側の自由が減少していく部分が土俵になっている。原発を運営するための高度な秩序が人を不自由にする状況。一方で、人の命が左右されるような状況(たとえば激しいテロや内戦)というのは赤いカーブの左半分だろう。ここではより無秩序な状況は単に「生きるか死ぬか」といった不自由な選択肢しか人に与えない。秩序はてきとうな按配であったほうがいい、ということでしかないのだけれど、自由と秩序は比例反比例の関係で捉えられがちかも、と思ったので書いてみた。*3
ミュンヘンのHaus der Kunstで展覧会を開くべきだと思う。
http://f.hatena.ne.jp/gorilla-boots/
すごいです。このDJ能力。どっから拾ってくるのだ、というその一例。
これも捨てがたい
うわー、これも。
深淵ですな。