台所

猿゛虎゛さんのノートを眺めていて(食育から食史へ)一八世紀末イギリスの都市の下層民の家には台所がなかったというようなメモがあって、台所の歴史っておもしろそうだな、と思った。ウィキペディアでみたら”kitchen”の項はかなり充実していておもしろい。ただ、一般の家庭がどうだったか、とか国による違いが書かれていないのが残念。そういえば台所の文化史、という本があったのを思い出した。さかのぼること10年以上前の院生の頃読みたいな、と思ったのだけど貧乏で購入を我慢したのだった。
台所の文化史 (りぶらりあ選書)
ドイツ語で料理することを一般的に"kochen"というのだが (音的にはコッヘン、英語のcookとなんとなく同系列である。日本で使われる登山用語のコッヘルもこのあたりから来ているのだろう)、湯を沸かすことも同じく”kochen”という。したがってドイツ人が英語で"cook coffee"という言い回しを使うことがあり*1ドイツに来た当初はコーヒーは料理かあ、と我彼のコンセプトの差を感じたりしたものだが、実際のところコーヒーを沸かす、ないしは入れるという意味と料理するという意味にドイツ人的にはどうやらあまり差はない。なぜならば、普段おこなう”料理”といえば湯を沸かしあるいは茹でることが主体の料理がほとんどだからである。”焼く”という行為はすでにかなり頑張った料理、ということになる。「シンデレラ」に出てくるようなかまどを想起すれば実際に庶民的な料理の主体はすなわち湯をわかすこと、だったのだろうし台所などという大仰な装置は金持ちの貴族以外はなかったんだろうな、なんて思ったりする。で、いまだにドイツ人の料理の主体は「沸かすこと」がほとんどでありkochenはkochenでありつづけるのだ。

*1:普通はmake coffee brew coffee, serve coffeeだろう

仏大統領論戦、左派、右派

この週末にはフランスの大統領戦。そんなわけで、わたしの周囲のフランス人たちも熱くなっている。昨夜実習の助手をしてくれたC君が、21時ごろからロワイヤルとサルコジディベートをネットを見始めていた。ビールでも飲みに行こう、とさそったのだが、いや、これは見届けなくては、とモニターにかじりついている。家にテレビがないので、研究所の太いネット回線でみるわけですな。
つられてわたしもしばらく眺めていたんだけど、フランス語はわからんからなあ。画面の下に表示されるそれぞれの累積発言時間が、若干ロワイヤルの方が多いのを見てからわたしは先に帰宅、一ヶ月ぶりに故郷のインドから帰ってきた友人とビール。
今朝になっていろいろ解説してくれたのだが、障害者児童の処遇をめぐる論争でロワイヤルが激昂したってな話を聴いた。そもそもロワイヤルが閣僚の時分に障害者児童を普通の学校で学ぶことができるようにしたのだけど、サルコジはその本人のまえで「障害者は障害者学校に」とやっちゃったわけですな。それにしてもいろいろ双方の立場の話をきいてみておもうのは、先日ちょっと引用したような左派・右派の定義にそれなりにしっかりと両陣営が沿っていることだ。すなわち、

政治権力を使って平等を実現することに積極的な政党・政治集団を左翼と呼び、これに反対するものを右翼と呼ぶ

という定義である。
日本もここからはじめてはどうかな、と思う。平等の実現を日本は国家としてなすべきか否か。なすべき、と思うならばあなたは上記定義にしたがい左派である。国家は国民の平等というイシューに関わるべきでない、というならばあなたは右派である。いずれにしろこれはさまざまなレトリック以前の立ち位置として基礎付けていいし、わかりやすい。そこから貧困、教育などにはじまり、改憲、外交、国のシステムがどうあるべきか、を考えていくということ。

なお、仏大統領戦に関するより詳しいレポートはもちろん猫屋さんの「ね式」がおすすめ。上記論戦のようすはこちら。