渡世

日本で修士の院生だった頃の話。随分上の先輩がつい最近結婚をした、という話を人づてにきいた。おお、そりゃめでたい、と思い、次に顔をあわせたときに「結婚おめでとうございます、よかったですね!」と意気込んで言ったら、当の先輩は「ああ、どうも。面倒なことはさっさと済ませないとね」と白けた顔で答えた。私はおどろき、あまり間も立たぬうちにぷりぷりと怒っていた。面倒ならすんなよ。
心臓に毛が生えた今となっては「面倒なこと」と彼が答えた気持ちも解釈はできる。世の中には社会的体面というものがあり、それを守ることが渡世である。そうやって「面倒なことをさっさとすます」ことで飯の種を確保していく人間もまたいるのである。でもいまだに私はやっぱり同じことをいわれたらぷりぷりしてしまうと思う。タテマエとホンネがあることをアプリオリに”はいはい、タテマエの部分さえ守っていればいいんですよねえ、みなさん”という開き直った態度がどーにもこうにも私を苛立たせるのである。実は「道徳を教科に」なんて話もまた同じ、「狭義の強制」もまた同じである。”タテマエさえ守っていればいいんですよねえ、みなさん”。で、そんな筋の通らない話があるかと怒ると「少しは大人になれ」。あーやだやだ
『国家と道徳』『「嘘」「正直」関連の雑多な思いつき』を読んで。

ひきつづき、渡世

渡世   荒川洋治 (抜粋)


お尻にさわるのもいいが
お尻にさわるという言葉は
いい
佳良な言葉だと思う
あそこにはさわれない
でもさわりたい、ことのスライドの表現
のようでもあるが
そうではない
この言葉には
核心にふれることとは
全く別の内容が
力なく浮かべられている
若いすべすべの肌にふれ
「いのちのかたち」をたしかめたい男性たちは
まとを仕留めたあとも
水が
いつまでもぬれているように
目をとじたまま お尻に
さわりつづける

ぺたぺた。

ちゅう。ちゅう。

「ね、うれしいんでしょ。これで、いいんでしょ。
でも、どうして、そんな顔になっていくの?」

そんなとき
言葉は輝く
お尻にさわる は
その力なさにおいて
輝く

谷内修三 『「渡世」と「仁義」』詩学 97年10月号より

「尻になんかさわりません」みたいなつるんとした輩を見たり「尻にさわるなんてけしからん」と大げさに顔をしかめる輩を目にするにつけ、やだやだ、と私は再び思うのである。ホンネを露悪する必要はない。でも迷いぐらい顔に漂わせろ。なお、全文はこちら(『渡世』 全文)。