日本からの来客で教授二人、官僚一人。近くのローマ時代の街に案内した。
夜いっしょに食事をしたPIが、彼みたいな破天荒な人は日本の大学には適応できないでしょう、と指摘したのをうけて教授の一人が、はっはっは、そうですね、ムリムリ、と答えた。あわてたPIがなんかフォローしてたけれど密かにめげた。

スクラップ&スクラップ

外山恒一 さんの東京都知事候補政見放送をyoutubeで眺めて、この人のいうファシズムっていったいなんだろうと気になったので、ブログから該当する部分を抜粋。

ファシストは心理学や社会学を必要としない。
ファシストが必要とするのは文学と歴史学である。

自由の敵に自由を許すな、と叫んだ時、人はファシズムのとば口に立っているのだとの意見に私はかつて賛同した。ファシストとなった今、確信をもって私は云う。自由の敵に自由を許すな!

別個に進んで別個に撃て。
ファシストインターナショナリズム。あるいは、「ファシスト・インターナショナル」のスローガン。

ファシズムの肝は「我々は我々(仲間)である」ということの強い自覚であり、その根拠は(徹底的には)問わない。
2005年に考えたこと (前衛政治家・外山恒一 ブログ)より

ロマン主義とでもいえばいいのかな。”スクラップ&スクラップ”という標語に先は見えない。 くりかえされる”やけっぱち”という言葉は「丸山真男をひっぱたきたい」の戦争(破壊)待望論ともなにやら似通っている。結構支持されているところも共通している。一方でその政治性において純一クン(名は身を呈す)とあまりかわるところはないんだよな、と思ったりもする。

私が当選したら、奴らはビビる!!私もビビる!!
外山恒一氏政見放送・テキスト起こし@MellowMoon

演説を聞いていてこの部分に私も少なからず強い印象を受けた。ひとつにはそれが自分ツッコミである滑稽さであるが、同時に私と同世代であるこの人の気分をどこか私も共有しているからだ、と思う。少数派であることを自認しアイデンティティとするものにとって(福岡親不孝通りから東京中央線高円寺、という指向性がなにやらそのものである)、さらには選挙自体を多数派の操作として否定する立場からは、ビビるのが当然なのである。自分が当選した瞬間に少数派であるというレゾン・デートルを破壊することになるからだ。でも破壊という実践において自分のアイデンティティの破壊ぐらいでびびっちゃだめじゃねえか、とも私は思う。

追記 (070329)

赤木氏も応答文の書き手たちも、フリーターの若者のおかれた状況がヒドイという認識を共有しているにもかかわらず、両者のあいだには深い溝がある。実際、それを埋めることができるような言葉が容易に見つかるとは私も思っていない。その溝は、社会化のプロセスにどのように乗れているか(あるいは乗れていないか)ということの違いに由来しているからだ。
萱野稔人「交差する領域〜<政事>の思考〜」 第7回 戦争は“希望”なのか?

理論に先行する実践、という態度がこのあたりから出てくる。実践すればそこに社会がうまれるから。アナーキストの誕生である。事実、「九州で道場を作って修行」という外山氏の次のステップはまさにそれだ。

この4日間に食べた晩飯

1 チーズフォンデュ
2 豚腿グリル(シュヴァイネハクセ)
3 ミュンヘンの学生街名物、特大ヴィーナーシュニッツェル
4 羊腿骨付き

1はなんかもう、一年に一回でいいという感じ。チーズはそのまま食ったほうがうまい。2の豚腿は、かみそりで肉の塊に切れ目を入れて、にんにくを大量に挟み込む。少々マッサージして、オーブンで黒ビールをかけたりしながら4時間近くかけて焼き上げる。3はB5ノートブックを広げたぐらいの面積のおそるべきトンカツである。10年たってもクオリティ量ともに変わらんのがすごい。4はうちの街のいちばんの高級レストラン。でも我が研究所のエライ人達ってTシャツでいっちゃうんだよなあ。ネクタイつけたりしないところに少々屈折した研究者プライドがあったりする。ラクでいいんで見習うけど。飯は広報部のおごりだった。
というわけで今日から素食なのである。昨晩糠みそを混ぜたら、実に糠みそ臭くなっていて感動した。ついに糠床、完成か。