対案の提出要求

ずいぶん昔のことだが、日本の大学院の組織改革の流れの中で、ファカルティの全体会議における院生の議決権を奪取する、というようなことをしたことがあった。紛糾した全体会議の中で、論敵となった組合経験の長い教授が「対案をださなくてはいけない」という講釈をたれたことがあった。議論の進め方としてはなるほど、そのほうが効率がよいのだろうな、とということでだてに組合活動してないなあ、とか思って少々感銘した。でも教育基本法の改定に関しては「対案を提出しろ」以前に、そもそも改定する必要があるのかどうか、というところで議論がまともになされていない。だとしたら、対案は「改定の必要はない」でいいのではないか。先日も書いたけれど日教組粉砕がその主たる目的なのであるから、92年の暴力団対策法のごとき「日教組対策法」みたいな直接的な法案を改定をもくろむ側が提出すべきなのである。そこからもうすこし具体的な議論が可能だろう。
野原さんの”対案を出せ攻撃”を読んで。

”自虐史観”否定のナルシズム

ナルシストが家で鏡を覗き込みながら我が姿にうっとりしている分には、勝手にしろ、というかべつにいいんだろうけれど、公道にしゃしゃりでてきて「あたしキレイ?」って聴いて回られたら、聴かれた側は困るというか、たいへんな迷惑である。つけくわえれば、なにやらその必死さにうら寂しいものを感じたり、あるいはその破廉恥さにぎゃくにこちらが恥じ入ってしまうだろう。しかも、なのであるが、「あたしキレイ?」にとどまらず「あたしたちキレイでしょ」なのである。「美しい日本」というスローガンに私が感じる厚顔さもこのあたりにもどうやらある。そうゆうことは本来、シベリアの飲み屋の片隅で酔っ払って「桜がみたいなあ」とぼそっとつぶやくべき話なのである。
日本人に対する国際的評価を下げる活動に熱心な、真の反日分子@good2ndの日記
Ted's Take, Nov 29, 06 コメント欄