<自覚>バカ

話題になっている、坂東眞砂子のエッセイ「子猫殺し」の原文を読んでみた。きっこのブログに掲載されたものを読んだ。なるほどなー、と思った。エッセイの筆者が前置きをしたように批判の嵐ごうごう、になった理由がよくわかる。文章は前半と後半にわかれている。前半は子猫を殺している、という事実の記述、後半はなぜ子殺しをしているのか、という理由を述べている。読んでいる人間はだれでも前半で、なんでそんな殺すんだー、子猫かわいいじゃねえか、と感情のトリガーを弾かれる。後半の説明はあまり冷静には読めない。なぜならば、前半で感情的になってしまっているからだ。きっこさんにしても、原文引用のあとの文章を読めばわかるが、怒髪天を衝いている。
後半の主たるメッセージは文章の中にかかれていない。はっきりと述べるかわりに、そのいいたいことのまわりをぐるぐるめぐることでメッセージの核を読者が考えるようにしてある。私のあまり好きなタイプの文章ではない。こうした書き方をすれば議論と批判が巻き起こるのはいわば当然である。なお、後半で筆者が言いたいのはつぎのようなことである。

  • ペットを飼育するのは人間のエゴである。本来の自由な獣の生を人間の勝手な都合でペットに貶め、害している。この人間のエゴを私はよく思っていないが、捨て去ることもできない。猫がすきでしかたがないのだ。したがってこの自分ではどうすることもできない矛盾したエゴと理性の葛藤をまっすぐ見据えるために、子猫殺しという形で自覚を深めている。-

なお、殺すことのエゴは、飼育することのエゴのメタになっている。いずれもエゴにほかならないのだが、メタでより強烈なエゴを実際に行為にうつすことによって、よりマイルドなエゴを浮き彫りにしよう、という形式(自覚への道)なのである。さらにいえば、この筆者の編み出した形式を文章として世間にさらす、という行為には思惑がある。子猫殺しというショッキングな行為を提示することで暗に、人間のその環境に対するエゴに満ちた生を批判したい、ということなのだ。
読者としての私は残念ながらこの批判形式にはまったくのることができない。この筆者の、環境を害している人間を批判する、というきわめて一般的に流布している二元論的思いこみ自体が私には賛同しかねるからである。人間もまた環境の一部なのであって、人間は環境に対峙しているわけではない。したがって、人間がなにがしかの行為をしたならば、それは即環境自体そのものでもあるのである。だとしたら、「環境を守る」ことなどできない。人間のエゴも含めたそれが環境の実態なのである。
より具体的にいえば、猫はもはや獣ではない。人間と共生している動物である。猫は人間のエゴと付き合う、という形の生き方をしている動物なのである。したがって、猫にとって人間もまた生の一部なのだ。人間の側にとってもそうである。猫と暮らすことで、その生の一部を動物と共有している。一緒に生きる、というのは一緒に楽しむことであり、互いに邪魔することでもある。だとしたら、「本来の生」などとそこに設定する必要などないのである。「猫の本来の生き方」を人間・環境二元論に則って設置するのはだから妄想にすぎない。この妄想に駆られて「害された生」が副次的に浮上し、「害している私」を反省することになる。単調でわかりやすすぎる善悪二元論が上のような子猫殺しを誘発し、さらにはその文章を書かせ、われわれを啓蒙しようとしているのである。われわれは”自覚をうながされている”のだ。先日書いた「善男善女」よりも少々手が込んでいるが似たようなものである。バカとしかいいようがない。