近況

昨年の11月にバルセロナのことを書いてから、年末年始に車でバルセロナ、今週もバルセロナとなにやらバルセロナにばかりいっているのだが、半分は友達が大勢住んでいるからであり、半分は仕事である。友達がいると仕事もなにやら舞い込んでくるので、どちらがどちら、と分別するのも妙なものなのだけど。直近のバルセロナは出張だった。三泊だけなので、今回は無珍先生、お留守番である。

最初の夜はお気に入りのバルに空港から直行、一人でエスケシャーダだのカジョスだのを感動しながら食べているうちに、だんだんと友達が集まってきて、7人で夕飯。二日目は学会関連の人たちと友人たちがごちゃごちゃに混じって、入るレストランがみつからず、あまりうまくないレストランで豚足を食うことになったが、なんだかんだいってその後は夜半までバルで侃々諤々であった。三日目は和食を食う、とかで「てんぷらや」という店にいって、これまた8人ほどの友人及び彼らが連れてきた友達の友達関係で、ひじきやら鰯の南蛮漬け、かつおのたたきを食ったり、鍋焼きうどんを食ったりした。この店は、ガリシアのうにをだしてくれるので実に貴重な存在なのであるが、注文したらすでに品切れだった。絶望は大西洋より深い。代わりに中トロを注文し「にぎりを箸で食うなんて粋ではない」と講釈をたれつつみなでぱくりと一貫づつ食べたのだった。

「日本の魚は食えるのか、汚染されてないのか」と聞かれたので、海流の話などをして、親潮の勢力下にある北エリアはあかんようで、しかもカレイとかウニとか、海底で生活している連中は汚染度が軒並みたかいそうである、という話をした。「じゃあ大阪は大丈夫なのか、よかったよかった」などとガヤガヤおしゃべりが続く。この手の話をすると、かならず彼らが言い出すのが「なんで日本の人たちは国のいうことを信じるのだ」という疑問である。とはいえ、昨今耳にするアンケート調査などによれば、もはや多くの人々が「国も東電も信じていない」ということである、と説明すると、「それはよかった」と笑顔になった。

私は彼らの笑顔を思い出しながら、「信じていない」というよりも、国家というシステムと日本という場所に住んでいる人たちの間の強烈な分断が起こっており、この分断の深さは修復不能なんではないか、と感じているので、「信じない」どころではないかもしれないなあ、と考える。まあ、そのぐらい国家というシステムに対する距離感があったほうがよいのかもしれないのではあるが、一方で民主主義の隠しコマンドを熟知したかのごとき「俺を信じろ」と顔に大書された某大阪市長に対する熱狂的な支持を眺めるにつけ、逆にその距離の取れなさ具合に「信じる信じない」という話ではないとつくづく思うのであった。そもそも国家というシステムは便利ではあるが、信じるかどうか、ということではない。住んでいる人間が使い倒す対象の筈である。