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オチがあるわけではない、たんなるメモ。
ドイツの文学者エーリッヒ・ケストナーに『飛ぶ教室』という名著がある。そのまえがきがすばらしい。
どうしておとなはそんなにじぶんの子どものころをすっかり忘れることができるのでしょう?そして、子どもは時にはずいぶん悲しく不幸になるものだということが、どうして全然わからなくなってしまうのでしょう?(この機会に私はみなさんに心の底からお願いします。みなさんの子どものころをけっして忘れないように!と。それを約束してくれますか、ちかって?)
この人生では、なんでかなしむかということはけっして問題ではなく、どんなに悲しむかということだけが問題です。子どもの涙はけっしておとなの涙より小さいものではなく、おとなの涙より重いことだって、めずらしくありません。誤解しないで下さい、みなさん!私はただ、つらい時でも、正直でなければならないというのです。骨のずいまで正直で。
人生の真剣さというものは、お金のために働くようになってからはじまるというものではありません。そこではじまり、それでおわるものでもありません。こんなわかりきったことを、みなさんが大げさに考えるようにと思って、私はことさらとりたてていうのではありません。また、みなさんをおどすためにいうのでもありません。いや、いや、みなさんはできるだけ幸福になってください!愉快にやって、小さいおなかがいたくなるほど笑ってください!
ただ、何ごともごまかしてはいけません。またごまかされてはなりません。不運にあっても、それをまともに見つめるようにしてください。何かうまくいかないことがあっても、恐れてはいけません。不幸な目にあっても、気をおとしてはいけません。元気を出しなさい!
かしこさのともなわない勇気は、不法です。勇気のともなわないかしこさは、くだらんものです!世界史には、ばかな人々が勇ましかったり、かしこい人々が臆病だったりした時が、いくらもあります。それは正しいことではありませんでした。
勇気のある人々がかしこく、かしこい人々が勇気をもった時、はじめて人類の進歩は確かなものになりましょう。
エーリヒ・ケストナー 著 「飛ぶ教室〜第二のまえがき」より : 岩波世界児童文学集
(引用先リンク)
『飛ぶ教室』のことをとつぜん思い出して調べたら上のページがでてきたのだが、特に二番目の涙の重さのことの部分が名言としてよく引用される。無珍先生が「オレンジジュースがほしい」と大粒の涙をボロボロながして泣いている時などに私は思い出す。ものすごく本気で悲しいんだろうな、と思ったりする。このまえがきは実はたいへん長くて、しかもまえがきとしては「二番目の前書き」である。上の部分は説教的な部分だけを抜粋したもの。間には両親に捨てられた子供、ヨーニーの身の上話が挿入されている。
本が書かれたのは1933年、ナチスがドイツで政権をとった年である。ユダヤ系ドイツ人だったケストナーは以後、焚書などの措置をうけることになる。
自由主義・民主主義を擁護しファシズムを非難していたため、ナチスが政権を取ると、政府によって詩・小説、ついで児童文学の執筆を禁じられた。ケストナーは父方を通じてユダヤ人の血を引いていたが、「自分はドイツ人である」という誇りから、亡命を拒み続けて偽名で脚本などを書き続け、スイスの出版社から出版した。ナチス政権によって自分の著作が焚書の対象となった際にはわざわざ自分の著書が焼かれるところを見物しにいったという大胆なエピソードがある。ナチスもケストナーを苦々しく思っていたが、拘束などの強硬な手段を取るにはケストナーに人気があり過ぎ、逆に民衆の反発を買う恐れがあったため、ケストナーの著書を焚書にした際、子供たちに配慮して児童文学だけは見逃したり、ケストナー原作の映画を作成したりしている。一方でベンヤミンを含む、マルキシズムの立場からは、政治的に立脚点が無く、その理想は、プチブルジョアのための慰めでしかない、という批判を受ける。
wikipedia
私が子供の頃に本当になんども繰り返し読んだ本だった。ひさしぶりによんでみたいな、と思ったのだが、手元にある本ではない。しらべてみたら、ドイツ語原著がScribdにアップロードされているのを見つけた。以下、上の日本語まえがき引用部分に該当する原著のところに赤線を引ひいた*1。
追記
- 作者: エーリヒケストナー,ヴァルター・トリアー,Erich K¨astner,池田香代子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2006/10/17
- メディア: 単行本
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そうして再び考えると、『飛ぶ教室』にかぎらず、様々なことが頭をめぐる。あまりに軽い言葉(そしてそれがもたらす耐え難い重さ)があふれる中で一番たしからしいのは、そうした言葉の軽視がもたらした過去の歴史のことだろう。実にそれは不幸なことなのだ。ケストナーのいう正直さ、というのはそのようなことでもあるのだと思う。不幸な状況を軽くする言葉はあるかもしれないが、それはなにも変えないどころか、事態を悪化させてより不幸な状況をもたらすことになる、のは誰もが本当は直感的に知っているのだと思う。だから『飛ぶ教室』はいまだに名作として読み継がれているのだ。
*1:最後の部分、赤線もう一パラグラフ分ひけていません。あしからず。