2年足らずの間につぎつぎと亡くなった義理の祖父、義理の母、自分の妻が残したものを、日本に来るたびに少しづつ片付けている。義理の祖父は中国史の学者、義理の母は栄養学の研究者、自分の妻は建築設計者であったが、いずれも本や書類を集積するのが仕事の一部であるので(とくに歴史家が天寿をまっとうして残した本の数は激烈である)、片付けるといっても一気に終えられるものではない。だから、日本に帰ってくるたびに本や書類を片付ける、という作業がスケジュールに入る。

埃をかぶりながら茶色を通り越してほとんどくろずんだ戦前の中国文化論の本などを眺めているうちに、抽象的なことを考える。人口構成比を考えると、これからの日本人の若い世代が行うのは、上の世代が生きた時代の後片付けなのではないだろうか。日本の成長の時代はとっくに過ぎて停滞となり、今後は衰退する。国の調子が循環的に変動するものならば、成長の時代はまたやってくるだろうが、われわれが生きている間にふたたび成長することはないだろう。衰退の過程で、日本の人々は、勢いのある成長の時代に人数が圧倒的に多かった上の世代が残したゴミやらなんやらを片付けながら生きていくことになる。

これは必ずしも具体的な物品を指すだけではない。上の世代が無駄なほどにまきちらした思想やらなんやらの知的アウトプットに関しても、その中から実際に使えるもの、価値のあるものをより分けて、残していくことになる。もちろん全部捨てちまう、といういさぎよい方法もある。とはいえ、知的生産において良質なものは、確率的に生じる。個々人の能力の多寡よりも、スクリーニングの対象となる生産物の量が必要である。目の前にゴロゴロとゴミの山のように転がっている生産物の量が多ければ、それに比例してなにかしら良質で残すべきものがそこにある量も多くなる。知的生産の一番ラジカルな部分は、二十代の人間が中心に行うことであるが、成長の時代のような、全く新しいものをどかんと打ち立てる、というような形式は、人口減ゆえに成り立ちにくくなり、過去の遺産をスクリーニングする、という形式を大幅に取り込みながら、上の世代が撒き散らしたゴミの数々を整理して行くのだろう。

食事記録

なすのしぎ焼き、グリーンリーフと大根の千切りサラダ(またまた桂剥きをして大根のクオリティに感動)、大根とシメジの味噌汁、白菜漬物、めかぶ、もずく、イクラしょうゆ漬け、数の子しょうゆ漬け。マグロ中トロさしみ、豚キムチ、ナムル、真いわしの田舎風煮魚。無珍先生は、サラダのドレッシングがよいらしくて、サラダをパクパク食べていた。あと、実家提供のつみれの汁、雑炊など。夜は初めてたべさせたマグロの中トロに目の色を変え、突き上げ要求激しく大人より多く食べていた。私としては自分の分を取られてしまった気分である。でも親としては世間一般常識に従い「いいんだよ、パパはおなかいっぱいだ」とかいわなきゃなんないわけである。トホホ。