ベタがベタでなくなったとき

紆余曲折して結局いまや再び「科学者の職業は真理の追究である」って言ってもいいんじゃないか、とわたしは思っている。「真理の追究」なんてこというと「まさか」という時代もありました。「科学者の職業は真理の追究である」って言うのってホントつらいというか恥ずかしいというか、アホですかバカですか、と穴に入りたくなるような気分になるけれど。
近代の文脈が見失われたらそもそも議論ってのは成り立たない。「まさか」は退行して「証拠見せろ」になるわけである。こうした状況はもう、あきれるほどあちらこちらで顕在化している。結局「真理の追究」、ベタがベタではなくなったので、普通に主張すべき内容になってしまったのである。研究の結果、かくかくしかじかなる結果でございました、と述べたときに「証拠見せろ」といわれてさんざん説明して「長すぎる、三行でわかるように」とかいわれたら、「大学で勉強しなおしてください」とでもしかいえなくなる。もちろんこれは立派な答えであって、それは人間が歴史の中で戦ってきた過程をさまざまな分野で(もちろん科学にも工学にも歴史がある)追体験し感得し理解するプロセスにはそれなりに時間がかかる。そうした経験を一発で右から左に手渡すことのできる、輝くような3行の金字塔があるわけではない。「本当の本当に大切なことには、理由があってはいけない」というのはこの重みのことなのである*1。この重みは、系譜であり知恵である。ナウシカのババサマがぶるぶるしながら語るような知恵だ。その知恵が現在における情報の流通の速度の軽やかさに比べてあまりに重い、ということだけなのかもしれない*2。かくなる三行有理の疾風から勁草を拾えるなら、とも思わないでもないけれど。
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[追記 080917 17:55]
関連して思い出したんで追記。"安原宏美--編集者のブログ"にいくつか引用があった。追記の理由はコメント欄なぞご参照に。

 東「(略)ちなみにぼくは南京大虐殺はあったと「思い」ますが、それだって伝聞情報でしかない。そういう状況を自覚しているのが、大塚さんにとっては中立的でメタ的な逃げに映るらしいですが、それは僕からすれば誤解としかいいようがない。」
 大塚「南京大虐殺があると思っているんだったら、知識人であるはずの東がなぜそこをスルーするわけ?知識人としてのあなたはそのことに対するきちんとしたテキストの解釈や、事実の配列をし得る地位や教養やバックボーンを持っているんじゃないの?」
 東「そんな能力はありません。南京虐殺について自分で調査したわけではないですから。」

http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10137812924.html

「リアルのゆくえ」(大塚英志東浩紀)からの抜粋だそうです。

最後に。フランスの社会学者・思想家プルデューの言葉を。
「最後の問題です。これまで述べてきた状況の中で知識人はなぜ曖昧な態度を持ちつづけるのでしょうか?知識人がいかに体制に屈服しているか、それどころか、いかに加担しているかを長々しく語ることはしません。きりがなくなりますし、気の毒な気もしますので。モダンとかポストモダンとかいわれている哲学者たちの間の論争に触れるにとどめます。スコラ的な遊戯に忙しく、ただ成り行きを傍観している場合はともかく、発言してもせいぜい、理性と理性的対話を口先だけで擁護するだけです。それだけならまだしも、体系的な著述を弾劾し、科学をニヒリスティックに糾弾しつつ、あのイデオロギーの終焉というイデオロギーポストモダン版、実は「ラディカルシック」版を担ぎまわっているだけなのです。」96年
http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10037431937.html

*1:あるいは被差別者という状態を経験すること、ホームレスとして存在すること、1950年代の米国南部で黒人としてバスの席に座ること、こうした経験はさらに重い。ウィキペディアでは説明しきれないだろう。

*2:この重さと制度化・権力制に対する批判がそもそもの「軽さ」だったはずなのだ。重みがなくなったらしかし「軽さ」は不必要なのである。