浄化

 一九世紀以降の戦争には、人種戦争という側面がつねにつきまとっていた。好ましくない人種を破壊することは、われわれという好ましい人種を再生させるための一つの方法である。われわれの人種の中から排除され、摘出される「汚れた部分」の数が多いほど、われわれはさらに純粋になる。戦争とは、ある意味では人種浄化運動なのである(旧ユーゴスラビア内戦では、兵士のレイブによる他民族の「汚染」の試みと人種浄化の原理が重要な役割を果たしたことを思うと、フーコーのこの指摘の先見性に驚かされる)。
 戦争だけでなく、犯罪者、精神障害者、狂人、性倒錯者についても同じような浄化の論理が適用される。優生学とは、生物学的なコントロールによって、「汚れ」を除去し、人種の浄化を図る学であり、生の原理によって人々に死をもたらす学問であるとすると、生‐権力とは優生学を原理とする権力だと言うことができる。

フーコー入門(ちくま新書) 孫引き 
via id:D_Amon:20080909:p1

浄化と汚染が対になっているところに注目。ただし21世紀以降の戦争は総力戦の軍事国家型ではなく散在戦の警察国家型に変容してあらゆる街角で突発的に起きるようになっている。これに対応して都市・街・住宅街・住宅・身体は排除に重きをおいた構造に変容しつつある。一方でそれぞれの外部では汚染がおこなわれる。局所的に秩序をつくり、外部に無秩序をつくると全体のエントロピー増大の速度は上がるから実に熱力学法則に則ったメソッドなのだが、それを人間がよしとするか否かは別の話。

そういえば先日のシンガポールの死刑制度の話もこれに繋がる話である。
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20080716#p1