日本人入門

kmiura2006-09-24

先週の私はドイツに来て10周年であり、10度目の誕生日でもあった。私の誕生日を祝う友人たちとイタ飯屋でさんざん飲み食いしたあとに、じゃあもう一軒、ということで街の中心にある広場に向かった。中世の雰囲気を残す石畳の広場には、我々がよく集う飲み屋がある。その飲み屋の前にある街灯に古い型の自転車が立てかけてあり、フレームには日の丸がぶら下がっていた。どこの日本人だ、こんなアホなことしているのは、と私はいいかげん酔っ払っている友人たちにいった。すると彼らは、おもしろい自転車だし写真でもどうだという。そこで私は自転車にまたがった。友人たちは揃ってケータイのシャッターを切りまくっている。そうこうしているうちにどこからともなく封筒を渡された。なんじゃこりゃ、やっとプレゼントかね、とぶつぶついいながら封を切ってみたら自転車の鍵が入っていた。私がまたがっていた日の丸自転車は、私への誕生日プレゼントだったのである。
7月に自動車を廃車にし自転車を盗まれケータイも盗まれて以来ゼツボーのどん底から立ち直っていなかったものだから(いいすぎか)ともかくも泣きたいほどうれしかった。そんなわけで「おめーらホントいいやつ」とうれし泣きなかばで引き続き飲み会だったのである。彼ら彼女らが中古の自転車屋をまわって私に似合う自転車を探した経緯とともに、ぶらさげた日の丸の入手過程をおもしろがって話してくれた。ワールドカップのころにはどこにでも売っていた日の丸、探したのだけどどこにも売っていない。しょうがないので、フランス人の友人が蛮勇を振るってフランス国旗であるトリコロールを切り刻み、赤い部分を丸く切り抜いて白い部分に接着剤で貼り付けたのだそうである。よくやるなあ。それが右上の写真である。日の丸であるが、タダモノではない。フランス国旗から派生した日の丸なんて、なかなかないだろう。私はうれしくて家の中に掲げている。
そうこうしているうちに、東京では卒業式で国旗国歌に向かって起立賛唱せぬ都立高校教師に対する罰則処分は不当であるという裁判判決が出た、とのことである。そりゃやりたくない人はやんなきゃいいじゃない、と私は思いながらも、一方で強制までしないと「日本人」であることを確認できない日本人のもどかしさにも思い至る。まわりがほぼ日本人だらけの状況で自分が日本人である、ということを確認しようにも、それはある種のフィクションとしてしか確認できない。私のように日々「日本人であること」を不可避に露出しながら(exposedっていいたいんだけど)暮らしていると「日本人」はフィクションではなく、上記のトリコロール改日の丸のごとく現実的なアイデンティティとして他者が押し付けてくる。いやだ、とかうれしい、という話ではなく、あたりまえのこととして迫ってくるのである。こうした状況とは違って、日本国内で「日本人」であることを確認するにはさまざまな工夫が必要となる。それが例えば日の丸君が代教育の強制なのだろう。
日本国内で日本人であること、には矛盾がある。だれもが日本人であるならば、それはとりたてて主張すべきことではないのだ。すなわち、あたりまえのことなのである。したがって、一人一人が「日本人である」ことを日本人に囲まれた状況で確認するには、いわば「日本人度」のような基準が必要になる。日本人同士の間でいかに自分があるいは他人が日本人であるか、を評価しあう必要が生じるからである。点数制にするとすれば例えば10段階評価。「空気が読める」でプラス0.5。「国旗に最敬礼し、ことあるごとに門前に日の丸を掲げる」でプラス1。「君が代を公衆の面前で堂々と歌うことができる」で、プラス1。こうしてそれぞれの日本人には、点数が決定される。殿堂入りの特別扱いは最近の国会議員も主張しているように「国のために血を流し命を捨てることができる」人。こりゃもう、10点じゃ足りない真性日本人ですね、ということになる。人々は互いの点数をくらべっこして、8点の人間は5点の人間に向かって「反日」と呼び捨てにし、5点の人間は0点の人間に向かって「非国民」と罵倒する。殿堂入りは、ホントに殿堂入りしてヤスクニ神社に奉られることになり、国を挙げて日本精神の本尊としてあがめることになる。そんな日本人内部での差異化装置がないと、日本で「日本人」であることというのはとても難しいことになるのである。
まあ、だからというのではないが、私は日本人の義務教育に留学を加えたらいい、と真面目に思う。政府がサポートして国外に1年から2年滞在することを義務にする。徴農なんて農民をバカにしたようなことを義務にするのではなく、その期間を留学に当てればよい。別に勉強である必要はない。パン屋の修行でもいいし、音楽学校に行くのもいい。どこかのビーチでアイスクリームを売るのもいるかもしれない。そうしたらたぶんどこかの首相が「あたりまえ」というよりもはるかに自然に「日本人」になることができるはずだ。