ゴルフとQ

私が毎日乗っている車は、元自衛隊員の知り合いに頂いた10年物のゴルフである。ドイツ人が免許を取って最初に乗る車、といわれるほどポピュラーな大衆車だ。乗り始めていろいろな点で日本の車と違うことに気がついた。大きな点は、すぐに調子が悪くなったり、壊れたりすること。古いから、ということや、日本よりもはるかに激しい使用状況というだけではない。よく壊れるのは普通らしい。また壊れた、と友人にこぼすと、お、そうか、とあまりに日常茶飯事のことなので問題にもならない。なぜここで壊れることがあまり問題にならないかというと、第一に部品の交換がとても簡単だからである。ゴルフの部品は大抵、どこのガソリンスタンドでも用意しており、すぐに手に入る。そして車に付属のマニュアルに交換の方法がことこまかく解説されているのだ。故障ではないが、真夜中高速道路を走行中にヘッドライトのフィラメントが切れたことがあった。次のガソリンスタンドに入り、フィラメントを買って、マニュアルを開く。交換はいたって単純で、ドライバーの一本も必要としない。手だけで全てが外せるようになっているので、5分もかからずに終わってしまった。これだけではないが、車がそもそも壊れることを前提に作られており、使用者は壊れることをあたりまえのこととして自分で処置をする。機械は部品を取り替えるものなのであり、壊れるものである、という前提がそこにはある。知人のイギリス人が昨年ドイツからアフリカのゴールドコーストまでおんぼろのレンジローバーを運転して往復してきた。旅行中に車は何度も壊れたそうで、そのたびに自動車工場に立ち寄り部品を取り替え、帰ってきたときにはボディ以外の部品はほとんど入れ替わっていた、という。

日本の車はメインテナンスフリー、といわれるように、実に壊れにくい。日本の自動車メーカーの気配りが隅々まで行き届いている。設計者とメカニックの職人意識の高さをそこに感じずにはいられない。日本車に乗っていればまず安心だ、と私もよく思う。夜中の高速で立ち往生するハメにはまずならないだろう。ただ、この高いクオリティのために自動車メーカーの設計者やメカニックが費やしている時間と労力を思うと、ここまでする必要があるのだろうか、とも思ってしまう。日本車のメーカーの場合にはこうした、会社が製作者に要求する精度と正確さはけた違いに高いのだろう。微細なこだわり、気配りはすばらしい。それが個人のこだわりならばよい。しかしそれが要求される場合にはどうだろうか。ストレスはより高いであろう。同じようなことが日本の鉄道やバスの運行に関してもいえる。1分毎にやってくるラッシュ時の東京の電車におどろかぬ外国人は珍しい。しかもそれがダイヤどうりの運行だ、と聞くと、外国人の反応は二種に分かれる。神業だ、とより感動を深める人たちと、キチガイか、とあまりのことに冷めてしまう人たち。そしてそこまで正確である必要があるのだろうか、というコメントが付される。そう、たぶん日本の人々はシステムと戯れることに淫している。システムそのものがなにを目的とするのかは別に。これをシステムフェチと呼ぶことにしよう。運行ダイヤ、ガジェット、機械そのものの正確で安定した運行と存在に対する愛情。そのことが前提になった時、ストレスをためこむ製作者や運転手は、無用に搾取されているのではないか。

なぜこんなことをずらずらと思い出したように書いているかというと、昨日id:femmeletsさん経由で、「京都オフライン会議議事録・西部柄谷論争の公開」を読んだからだ。西部さんの立場はQというシステムをいかに洗練させ、効率よくし、広めるかという立場にほかならない。そのためにはボランティアでは保障できない定常性を導入するために専従者の雇用が必要だと考える。これはたぶんそうなのだろう。いってみれば、Qは銀行であり、銀行の業務を素人が副業で行う労務負荷は過大であることは想像に難くない。しかも日本の銀行だ。ガムをかみながら接客業務することは決して許されない。しかし柄谷さんは批判する。理念を犠牲にしてまでシステムの運行を安定にする必要があるのだろうか、それではそもそもの生産協同組合、という理念にもとるのである、専従者の導入は理念の放棄にほかならない、不安定なシステムならばそれでいいではないか、そのためには正確さ・精密さ・効率は低下するかもしれない。それでもいい、と吼えつづける。

私にはあまりにもこの「論争」は明解だった。上で私が使った言葉にすれば、システムフェチの問題に他ならない。Qという愛すべきシステム。実はシステムフェチの問題は丸山真男が60年近くも前に「日本の思想」で「タコツボ」と批判し、何度も繰り返されたことである。学生運動の時期にも、運動論としてさんざん議論されたはずだ。同じことが繰り返されているにもかかわらず、互いの人格攻撃にまで堕している論争に私はかなり失望した。生物学を専攻しているからかもしれないが、私はシステムにおけるコンポーネントは入れ替わるもの、不安定なものだと思っている。大まかにあっていればそれでいいのだ。たまたま自分が乗っているおんぼろのゴルフがすばらしい、ということではもちろん、決してない。