社会が先か、法が先か

社会が先か、法が先か。24日新宿で在特会の喧嘩を買って逮捕された中国系の少年の話を目にして、非暴力・不服従キング牧師の言葉を思い出した。下に貼り付ける。拙訳もつけてみた。もちろん、この言葉が少年の件にそのまま適用されるわけではないが、法はそもそも社会がなければ存在しないのであるということを思い出させる。社会に良心があるならば、社会は弱いものとして排除されいじめられている人間を常に助けるべきである。1月24日にかぎらず、いつでもそうだ。喧嘩以前にぎざぎざになった少年を助けることができず、結果としてやくざの鉄砲玉のような団体の挑発に喧嘩を買わせ、少年を逮捕させてしまったのは社会である、という自覚は社会を構成する一人一人の人間が思い至らなくてはならぬ点である。

An individual who breaks a law that conscience tells him is unjust, and who willingly accepts the penalty of imprisonment in order to arouse the conscience of the community over its injustice, is in reality expressing the highest respect for the law.

自らの良心が不正義であると教える法をやぶり、社会の良心が法の不正義を越えて凌駕するように、みずからすすんで投獄の罰を受け入れる個人は、実のところその法に最高の敬意を払っているのである。

Martin Luther King, Jr.
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア

追い詰められて暴力沙汰に及ぶ少年の心の中ってすごいものがあるんだけど、これは経験しないとわからないかもしれん。20年もたつ私でも思い出すとギザギザになって戦慄する、というような心の中なのである。私はそれを救って欲しい、救いたい、と思う。

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