Facebookの日本語化

Facebookが日本語版導入とのこと、なにやら黒船来襲のごとき雰囲気の記事をみかけた。アプリはいろいろあるみたいだけど、日本にはmixiがすでにあるんでダメですね、ってな識者のコメントも続出している
とはいえ、mixifacebookは全くことなっていると私は思う。私はfacebookを使い始めて長いことになるのだが、使い方がmixiと全く違うので同じSNSといっても異なるものであると思っている。社会の中でランダムに人が出会って話す場が比較的少ない日本社会では、mixiはその代替の場として使われている。つまりネットからリアルへ、というベクトル。一方、Facebookはリアルで起こる出会いをサポート・強化するツールとしての存在だ。リアルをネットが補完しているようなイメージである。日常的にあっているような人達だけではなく、人の流動性がたかまってやたらと移動、引越しをすることの多い昨今、あの人は今どこに、といった形で細いつながりが保たれるというような補完性もある。Facebookのインターフェースはそのためにデザインされているように思う。mixiのような日記を通じた交流というよりもネット上でダイナミックに情報が追加される名刺なのである。日記交流の場合は自分を文章で説明する必要があるが、名刺の場合はすでにその人を知っているわけだから、情報はあくまでも補完にすぎない。東欧出身の友人の一人は、最初のころ匿名で登録していたが、周りが実名ばかりなので気にしだして、新たにアカウントを取り直して実名で再登場した。名刺の機能を考えれば、匿名であることのメリットはあまりないのである。このあたり、発言内容によってウェブ人格が決定する、といった世界とは全く異なっている*1
話はかわるが、いろいろな国の人がドイツに住んでいる。そうした人々の家に行ってみると、ドイツ風のアパート(いわゆるWohnungですな)に住んでいても、住んでいる人の文化によって家の中の雰囲気が異なっている。たとえば日本の人の家にいくと、どっかごちゃごちゃとしていて(台所にがさがさと細かいものがあったり、棚にやたらとものがつまれていたり)、ああ、日本文化だなあ、と思ったりする。箱は一緒でも運用がことなる。Facebookというインターフェースを日本の文化がいかに使うのか、そこに現れるであろう差が私にはなかなか興味深い。あるいは上記識者が述べるような理由と少々異なるが、単に社会の構成・インターアクションのモードが違うので全く使われない、ということに終わるのかもしれない。

*1:ただし、これは私の周りの100人近い人間がそのように使っている、ということであって、見たことはないがmixiのように使っている人もいるのかもしれない。また、日本の出会い系サイトのようなツールはアプリケーションとして存在する