教育基本法改定 リンクやコメントなど

いじめっこはどこに?(狂童日報)
あー、そうだな、とだいたい賛同。で、私が思うことなど少々。いじめの撲滅は不可能である。どの人間のなかにもある邪悪さがそれを駆り立てているのであって、人間が正邪の二面性を免れえぬ以上、いじめの撲滅などという目標は絵に描いた餅、空念仏、空理空論である。これは人間観に関わるのかもしれない。子供であろうが大人であろうが、その中の邪悪な部分は決して振り払うことができない。このように考えず邪悪さをなにやら、本来良心に満ちた人間を惑わせるノイズ、のように考えるから撲滅などという発想がでてくる。人間は正邪の二面性をもつ、という観点からすればいじめは犯罪であるという認識が形成されたほうがよい。たとえば、男による女のレイプは生物学的な本質かもしれないが、それが犯罪であることと似ている。犯罪である、とするのが人間なのである。
いじめは犯罪であるという規定があれば、いじめなる社会行為をドライに処理することが可能になる。「いじめは子供の喧嘩の延長である」というような形であやふやなまま扱われるから、その責任の主体があいまいになる(このあたりのことは、hizzzさんが11月1日付けの文章でよりストレートに書かれている)。立証手段を明確にし、それが裁かれることが明白であり、なおかつその立証・裁判過程が機能することを子供たちのみならず親にも周知すればよい(すなわち機能させなくてはいけない)。
いじめが顕在化しないのは、これまたその撲滅が不可能であることを直視しないことに基づいている。撲滅が可能である、というような非現実的な考え方を大人が振り回すからいじめの本質にたどり着くことができないのだ。別の言い方をすれば、「いじめ撲滅」キャンペーンが、いじめそのものをマージナライズする、ともいえる。
ところでこの現実を素通りする態度に私は某首相の説く<美しい日本>を想起する。ぺなぺなな化粧板のごとき浅はかさしかその言葉に感じないのは、そこに現実的な重みがないからだ。<美しい日本>スローガンは、決して消えることのない美しくないものを排除し問題の対象からさえはずす。あたかもそこにそれがないかのようにふるまう。これは、上で述べたような正邪の二面性を直視しない「撲滅」的発想にとてもよくにているのだ。これは、問題を解決できないときにそれを先延ばししよう、という態度とも同等である。

タテマエと本音を使用するならばそれを使い分ける能力が必要である。能力がないと、どこでわけたらいいのかわからなくなって混乱することになる。私なぞは能力がないので、なるべくタテマエをさける。同様にタテマエがどこからどこまでなのか、使い分けられなくなっているのが「美しい日本」であり、「いじめの撲滅」である。かくしてわけのわからぬ”徳律”なんて定義の流布していない言葉まで登場してくるわけだ。以下、教育再生会議座長のコメント。

「いじめに関してはすでにアピールを出している。(道徳)規範の問題は法律ではなくて徳律で考えていかないといけない。徳律の問題は委員の間でも一致するところは多い。それを法律(で対処すること)にするとなったときには、再生会議ではなく具体的に専門家にやってもらう」

村八分、なんていじめはその昔の徳律だったのではないか。だから近代国家には法律があるのである。

特別委員会審議状況(mitibosatuの日記)より、審議のメモから抜粋。

教育基本法にたりないもの=戦後日本人が置き忘れてきたもの、与党と民主党の見解はあたり前だけど一致。それは、日本の共同体や、家族を大事にするこころ、規範意識を持った公民の育成という点。

伝統が法律に生かされていない、ということになるのだが、法律にした時点で伝統ではなくなる、という矛盾がある。あるいは、伝統は法律にする必要がないから伝統なのである。50年程度で失われる”伝統”ならば、伝統としての価値はないし、社会的な意味もなかった、ということにほかならぬ。われわれに「漬物基本法」やそれに準ずる「ぬかづけ法」は必要だろうか。上の”徳律”発言と比較しながらまとめれば、いわば「習慣」の言い換えにすぎない「徳律(歴史的に発生した自生的秩序)」を国家が規定ないし制定しようとすることはそもそも語義矛盾である。

「教育に問題」フレームアップ関連

mixiで「日教組が教育基本法改正反対に向けて「非常事態宣言」(笑)」というトピックを見つけた。」(女教師ブログ)とか昨日のできごと (mitibosatuの日記)のコメント欄などみていたら、私も思うんだけどいじめ関連の記事がマスメディアで妙にフィーチャーされたり、はたまた履修問題なんてのが急に浮上したりしている。なんらかの政治的背景があるのなら、あまりにあからさまだなあ、と思うのだが、これって、たとえば実際の小中高校生のいじめによる自殺・自殺未遂件数の時系列とと、それに対応する報道で扱われた件数(行数?)を比較したプロットがあったらよくわかるんだけどなあ、と思う。後者が面倒そう。

追記 誤算になるかなあ。

kechakさんが、高校の履修漏れ問題や、いじめの問題が噴出しているのは安倍政権にとって誤算である、という見方をしている。こうした現実的な問題を前に「教育基本法改正」「愛国心」はあまりにかけはなれているからだ、とのことである。でも、私は思うんだけど、「美しい国」スローガンで安倍政権を支持する人は次のようなロジック(?)をすんなり支持すると思う。

履修漏れ問題、いじめ問題 
  −> 基本がなっていないからである。
   −> 教育の基本的な改革が必要。 
    −> 教育基本法を変えなくてはいけない。
     −> 愛国心があればその法律を守る。

論理というか私の感覚でいうとオヤジ談義ないしはオバハン理屈なのだが、誤算、とは思えない。喜んでいるんじゃないか。