加藤紘一インタビュー

昨日書いた内容に関連することを加藤紘一が30日付で喋っている。以下引用。

僕は愛国心とかナショナリズムには、どうも今の日本を見ると3種類あると思う。
 ひとつは、隣の国と戦ったり、抵抗したり批判したりする抵抗するナショナリズムです。これは国境線問題でも島の問題でも戦うナショナリズムです。これは政治家が使うと非常に効率的なナショナリズムだけど、非常に危ないナショナリズムです。
 2番目は競争するナショナリズムです。サッカーでわがチームジャパンが勝てばワーと騒ぐ、WBCで王監督の下に勝ったとなると喜ぶ、それからイナバウアーで勝つとうれしいのです。さらにこれが、小学校の数学国際コンテストで勝ったとか、科学技術の想像力があるかとか、最後がGNPの競争です。これは健康な競争するナショナリズムだと考えます。
 3番目は、誇るナショナリズムです。日本は『これなんだよ』と誇るナショナリズムで、例えば、あるフランス人は文化のすべてがフランスに象徴、結集されていると誇る。その人がそう思っていればそれでいいし、幸せならよいのです。
 『俺は日本人だから朝飯はご飯だ。それから寝るのも、俺はベッドは嫌で布団に浴衣。家にいるときは作務衣を着る。飲むのも日本酒』とかね。誇るナショナリズムこれはいいんです。
 その3番目が見つからないから、われわれジャパンと言うときに、とりあえず1番目の抵抗するナショナリズムになる。これはやばいと思います。
加藤紘一氏に緊急インタビュー

確かに和食がナショナルアイデンティティじゃ政治家にとっちゃ効率悪いよな。3番目がなぜみつかりにくいかというと、けっきょくそれは与えられるアイデンティティではなく、むき出しの自分を世界に放り出して我が属性を見抜くことだからなのである。弱虫が一番に流れる。抵抗っていったって所詮島国の中からぬくぬくと、攻撃されることのないバーチャル抵抗である。問題はその抵抗が無責任な抵抗であっても、関係性としてはそれが現実化することである。

 クレモント氏の記事について。

一昨日のコメント欄より。

nippyo 『昔の話を持ち出しても結局、小森氏が右翼テロリストの一員であるかのような、日本に思想統制があるかのようなクレモンス氏の記述が正しいことを証明できませんでした。あなたは気がついていないようです。彼がやったような事実に基づかない非難攻撃はあなたが“言論統制”の事例としてあげたものと同種であること、攻撃されているのが自分の気に食わない人物であるからといってそれを容認することがいかに危険であるかということ。その意味であなたはイェロウジャーナリズムが効果を表す世界の住人です。』

# nippyo 『「コモリ氏の活動は上に説明したようなソフトな統制に含まれる‥」
もう一度古森氏記事のを読み返したほうがいいでしょう。
http://blog.goo.ne.jp/kaz1910032/d/20060812

というわけで、もう少し詳しく説明する必要がありそうなので、あらためて書きます。
まず事実関係。サンケイのコモリ氏(古森義久)はJIIAの理事長であるサトウ氏(佐藤幸雄)に、コイズミ首相のヤスクニ参拝を批判するような文章を書くようなフトドキ者(すなわちタマモト氏=玉本偉、英文編集長のことですが)を援助するために日本の税金を使ったことに謝罪せよ、と要求しました。また、それに応じてサトウ氏は24時間以内に当該サイトを閉じました。サトウ氏に対する文章は「公開質問状」として上記nippyoさんのリンクでみることができます。
この経緯に関する情報は、クレモント氏によるワシントンポストの記事以外にも、アジアタイムスが記事にしています。
Open debate under threat in Japan By Sheila A Smith and Brad Glosserman
クレモント氏のワシントンポストの記事における、コモリ氏の評価にあたるのは次の部分です。

What's alarming and significant about today's intimidation by the right is that it's working -- and that it has found some mutualism in the media. Sankei's Komori has no direct connection to those guilty of the most recent acts, but he's not unaware that his words frequently animate them -- and that their actions in turn lend fear-fueled power to his pronouncements, helping them silence debate.

The Rise of Japan's Thought Police
By Steven Clemons Sunday, August 27, 2006; Page B02
なお、クレモント氏は自分のブログも持っています。そこでも今回の件について触れている。
japan's Right Wingers Out of Control @ The Washington Notes,
このブログでは、コモリ氏の評価は以下のようにもう少し詳しく書かれています。

I know both of these writers/intellectuals -- and Komori has established a kind of franchise on the debate about Japan's historical memory. He is the authoritative right-wing commentator on the politics of Japan's war memory and on Japan-China relations. He's part of a group that understandably argues that Japan needs to get beyond its kow-towing to China and other nations in the region over World War II -- particularly given the behavior of the Chinese government towards its own people in the 1960s and 1970s.

他にもウェブ上でクレモント氏は関連して以下のような記事を書いています。Japan ― trend: right-wing nationalism
さて、それではクレモント氏はコモリ氏をnippyoさんがおっしゃるように「右翼テロリスト」扱いしているでしょうか?記事を読む限りコモリ氏が右翼である、とは言っていますが、テロリスト、とはいっていない。記事の中にはテロリストという単語は一度もでてきません。もちろん、テロリスト、という単語が911以降政治的に使われることが多く、その意味がくるくると変わってしまう実に微妙な便利すぎる言葉であり、言論を生活の糧とするクレモント氏はその用法に慎重にならざるを得ないでしょうから当然です。では「右翼」はどうでしょうか。コモリ氏の文章を読む限りコモリ氏自身は自分のことを右翼だと自己規定していません。どちらかといえば、それが「普通である」という考え方をしているように見えます*1。したがって、自己規定と他者による評価が分かれることになりますが、私にもコモリ氏の意見は明確な右翼と思えるので、クレモント氏を支持します。
上記引用にあるように、実際に手を下した行動派の右翼とコモリ氏とは直接コンタクトはない、といっています。ではクレモント氏がなにを問題にしているのかというと、コモリ氏の言論は行動派の右翼のアクションの引き金になっている、一方で、行動派右翼の実力行使が逆にコモリ氏の言論に実質的な権力を与えているというメディアを介した相互関係を問題にしているです。はたしてこの関係性は論証可能なのでしょうか。これはしかし、恋愛関係を証明しろというようなもので、問題設定がまちがっている。蓋然性の話なのです。だから先日のコメント欄で、私は蓑田胸喜の例を挙げました。蓑田は実際にはなにも手を下していない。しかしながら、言論と暴力の相互の関係から、蓑田胸喜のペンの権力は戦前の帝国大学教授を何人も更迭させるほどの力を得たのです。これをもって「蓑田胸喜はあの時代のテロとは関係がなかった」と今の時代の私たちは評価するのでしょうか。
私はコモリ氏だけではない、と思います。この10年ですっかり右傾化した日本の言論状況が −もちろんその右をいっている人たちは自分たちが”普通である”と主張していることも承知ですがー、実際の実力行使となってたとえば加藤紘一の実家の放火を図らずも促しているのではないか、と思います。そしてこうしたむちゃくちゃな行為がさらに「口寒し」な状況を加速させ、”普通である”はずの主張に威光を与えるのです。私はこれを事実上の思想統制(あるいはクレモント氏の言葉を使えば思想警察、ですが)である、と考えますnippyoさんは、このクレモント氏の批判自身こそ思想統制ではないか、とおっしゃりますが、決定的な違いはコモリ氏はその実家を放火されることはおそらくないだろう、ということです。一方で、タマモト氏はヤバイかもしれませんね。
なお、ここで私のいう思想統制がいかなるものであるのかをもう一度確認するため、私がコメント欄に書いたことを再掲します。お名前を間違っていたので、その部分訂正しました。

たとえば当時の蓑田胸喜の言論活動はnippyoさんの言う”思想統制”に含まれるのでしょうか。彼は具体的なテロ活動はおこなっていませんが、イエロージャーナリズム的な形で大学における言論活動に圧力をかけました。蓑田胸喜自身が当時の政府の工作員だった、といった気配はないので、彼は自分の意志でそうした活動をおこなったわけです。効果は実にあらたかで、ずいぶん大勢の真摯な学者が大学から追放され、結果として翼賛体制が強化されていったわけです。つまり、ハードな意味の統制によって批判を禁じたわけではないのですが、批判をすることを実に低次元な見方から糾弾することでソフトに(環境型ともいいますが)統制がおこなわれたわけです。
件のWPの記事は、批判をうけて日本国際問題研究所がサイトを一時的に閉鎖していることに、驚くほど素直だ、素直すぎる、というようなコメントをしています。私からすれば、これは日本ではよくあることだなあ、と思います。面倒なことにはなるべくかかわらないようにする、あるいは、問題がおきたらその問題の場自体を隠蔽する、という反応です。じつに日本的なはからいかたなので、アメリカ人は異様にうつるのでしょう。でも、こうした問題や対立を嫌う傾向が、上で述べたような”ソフトな統制”の駆動メカニズムの一部なのではないか、と私は思います。こうした形での統制については第二次世界大戦後にずいぶんと多くの学者や研究者が頭を悩ませ、いろいろな論考がありますが、いまだにクリアーな定義はないのではないでしょうか。これは日本の人間が考え抜くべきテーマのひとつだと思います。

*1:"このような「下からの」ナショナリズム、いわばポピュリズム型運動を、たとえば「自民党・文部省が一貫して企ててきた教科書攻撃の一環」「右翼」「ファシスト」などと攻撃しても彼らには届かないであろう。なぜなら、こうした運動の参加者には、自分たちが、「体制側」であるという自覚も、「右翼」的な「イデオロギー」を信奉しているという意識もなく、「健康」な「常識」=「リアリズム」に従っているだけだと思っているからである。" 小熊英二『「左」を忌避するポピュリズム』世界1998年12月号より