日本語による風景、外国語による風景

私が最初に吉本ばななを読んだのは英語だった。タイトルはすでにわすれてしまったが、川の向こう岸に夜明けの一瞬にだけ死者が登場する、という日本の古典的なモチーフだったのを覚えている。とても感動したので、ばなな結構いけるじゃねえか、と思い、のちに日本で日本語の吉本ばななを買って帰ってきた。そうしたらどうもちがう。あの本だけがおもしろいのかな、と思って、英語で読んだ最初の本をさらに後になってから日本語で手にした。なんかちゃうなあ。そう思って読まなくなった。
翻訳された本がちがう本である、というのは科学業界の場合たいへん困ったことになるのだが文学であればそれなりにおもしろいと思う。ミラン・クンデラは翻訳の忠実さにとてもこだわる人で、「Joke」の英語版にはいかに翻訳に力を注いだか、最初の翻訳者がダメ人間でいかに苦労したか、というような本人の解説までついている。こうしたこだわりとは別に、あるていど幅が広がったり、逆にちがった雰囲気が出てくるのはクラブ系の音楽で多用されるリミックスみたいなもので、それ独自に楽しんでもよいのではないか、と思う。村上春樹はこれまですべて日本語で読んだのだが、英語で読んだら結構おもしろいかもしれない。そもそもが英語向きの文章の書き方をしている。
話はとぶのだが、社会情勢の翻訳の場合はどうだろうか。などということを思ったのは、たまたまこの週末に昨今の日本の政治的な言説状況を報告する英語の新聞記事を紹介するブログをみかけたからである。私が読んだのは以下のような内容のワシントンポストの記事にたいするコメントである。

8月12日に、ヨシヒサ・コモリ(ウルトラ保守派の産経新聞のワシントン駐在論説委員)が、マサル・タマモトによる記事を攻撃した(Commentary という日本国際問題研究所によるオンラインジャーナルの編集者)。その記事は、反中国(僕:fear-mongeringがよくわからん)や日本の戦没者に敬意を表している神社への公式訪問に表れる、日本の声高な新しい「タカ派ナショナリズム」の出現に対する懸念を表明していた。コモリはその文章を「反日」ときめつけ、その主流派の著者を「過激な左翼知識人」として攻撃した。

Chupika Szpinak、mudaidesuさんの”エグイ文章を見つけた。
元記事はこちら。The Rise of Japan's Thought Police
さらにはコモリ某は「日本の税金を使って日本の首相を糾弾するとはなにごと」となんくせをつけ、その結果日本国際問題研究所のコメンタリー欄は目下閉鎖中である。米国のメディアに携わる人間からすれば、唖然とするほど素直な日本国際問題研究所ということになるのだが、この具体例を通じて昨今の日本における言説の自由に対する圧力をさまざまな例を通して報告している。
上記の国際問題研究所の話は私は始めてきいたのだが、そこに出てくるさまざまな事例は私もウェブなどどこかで耳にした話が多い。しかしながら、こうして英語で報告される日本の社会状況、ある意味大まかな総説はどこか違った視角を与えるようで、さらりとリストされるこの数年の事例を見ながら、なるほどこのところの日本は自由な言説への抑圧がいろいろあるのだな、と私は妙に冷静な知識を得る(というか、日本語で「自由な言説への抑圧」と書いた瞬間にその新鮮さがうしなわれる)。日本語の海のなかから日本語で垣間見る日本の言説の抑圧状況には、あ、右翼のテロか、と思ったりするのではあるが、どうも私は日本語から日本的な悟性と慣性を切り離せない。上のごときウェブサイト閉鎖事件は10年前であれば(むろん10年前にはウェブ自体がそれほど一般的ではなかったが)おおいに話題になったはずである。というよりも閉鎖しなかったのではないか。しかしながら、その閉鎖は芸能人のブログが不倫などで”炎上”し、閉鎖に追い込まれるのと同じ次元で眺めてしまう。なにげなくスルーしてしまうのだ。日本語の中でそれを読んだり聞いているときは、どうも耳が慣れすぎていて、ベースラインのシフトが感じられない。海の中では波の大きさがよくわからない、ということなのかもしれない。