機械の中の酔っ払い

この一週間はモンテカルロ・シミュレーションにとっかかっている。最初に考えた物理学者たちがカジノで遊んでいるときに思いついただの、さいころを振るようなシミュレーションだからカジノの名前をつけた、だのいろいろな伝説のあるネーミングである。なんにしろなかなかしゃれっ気のあるネーミングで、数値計算関係の単語の無愛想でとっつきにくい感じと違ってどこかかわいらしい。ローンバーグ積分、なんて名前を聞いただけでなんかすごいことになりそうである。(”ルンゲ・クッタ”は結構いけているかな。カーブフィッティングの評価方法に「アメーバアルゴリズム」なんてものあるのだが、それで実際にアメーバ関連の解析をしたりするのはオタク的なヨロコビを感じたりする)。イタリア語だからだろうか。かわいい雰囲気だけではなくて、実際に原理もかなり単純である。
現象をモデル化しようとする場合には通常数式を考案する。微分方程式をデザインして、時間発展を推測する、というのが私の分野ではよくやるモデル化である。分子レベルの反応でいえば微分方程式には分子密度(濃度)に代表されるようなマクロなパラメーターを使う。これに速度定数などを加味してダイナミクスを追うのである。ところが、モンテカルロの場合は、ミクロな一分子一分子の運動を考える。したがって、乱数の生成が鍵となり、まさにさいころをふって分子がどこに行くのかを次々と決めていくことになる。全体のダイナミクスを眺めるときにはミクロな個々の分子の状態を各時点で総計して、こうなりましたね、と結論するのだ。したがって、微分方程式をデザインすることなく、アホのように分子を動かせばよい、ということになる。計算機が発達した時代にまさに合致した手段である。使っていない古めのコンピューターにプログラムを入れて、漬物のように勝手に走らせておけば何回も試行して結果を実態にかなり近似させることができる。機嫌のいい酔っ払いを百人集めてきてポーカーをさせるようなものだ。勝手に延々とやってくれる。

言文一致運動の夜

関係ないのだが、上のイタリア語で思い出した。昨夜イタリア人にカタカナを教えていた。頼まれたわけではなくて、日本語の表記はどうなっているのだ、という話をしていたら彼がおもしろがるのでいつのまにか二時間にわたるカタカナ講習になってしまったのである。母音と子音の組み合わせでなりたつカタカナのシステムを教えて、この表を見れば一発でかける、と教えた。新奇さにとりつかれたのか、自分の名前などをカタカナで表記して、これであっているか、などと私に確認するのだが、これがかなりおもしろいことになっていた。彼の名前はMazzaで、私の耳ではマッツァなのだが彼に書かせるとマッザァになる。”ツ”の音が彼にはできないので、ツと表記すると”トゥ”になってしまう。したがってザの方が、近い、とかれはいう。あるいは「ヨーロッパ」を彼に書かせると「エウロパ」になる。「カフェ」は「カッフェ」。大正時代の大衆文学な雰囲気である。思えば「ゲーテ」なども実際にドイツ語で発音するときには「ギヨエテ」と昔風の表記で発音したほうがよく通じる。そんなことを彼と話していたら、そうかー、だから日本人は外国語が下手なんだ、と彼は言っていた。私もなるほどなあ、と思う。日本人は外国語をカタカナにコンバートしてしまう。コンバートされたときからそれはかなり近似の悪い音になっているのだが、カタカナからわれわれは頭を引っぺがすことができないのだ。かくして音に対する感受性が鈍化する。いずれにしろ、カタカナ・コンバージョンにかなり熟達した後、彼はよおし、最終テスト、といいながら日本語で歌える唯一の歌のテクストをカタカナで表記しはじめた。「上を向いて歩こう」である。なかなかうまくいっていたのであるが、彼がしたためた”ひとりぼっちのよる”は”イットリボッチノヨッル”。確かに歌っているときはそうかもなあ。

学生政治運動の制御

今の日本で大学生の学生運動がなぜ下火か、という話をid:qushanxinさんが分析している。主体的な選択ではなくそれはいわば環境要因ではないか、という主旨である。環境要因として(1)大学生の非エリート化(2)各大学内における一体感の低下などを挙げており、そうだろうな、と思った。この分析に加えるべき点として日本の行政が学生運動をししにくいような環境を大学に整備した、という計画的な制御の結果でもある、ということを私はコメント欄に付け加えた。この1970年までの学生運動を踏まえた行政による学生運動抑止計画がうまく成功しているのだ、ということは忘れてはいけないと私は思う(たとえば私の出身大学にしても全学集会ができないように一番広い空間に木が植えられたという。木があること自体はいいのだけれど。)。