イースターの間にしたこと。春の陽気に浮かれて、ライン川支流の谷を車で遡った。古い城がたくさんあって、中には中部イタリアみたいな城壁に囲まれた山上の街もあった。イラクの事件のことをいろいろ考えて結構な時間費やした。あとは来週のワークショップのこと。毎年2,3回、ヨーロッパ各地からあつまる研究者に向けたワークショップで話すのだが、今年はとてもではないが専門ではないようなことも教えなくてはいけなくなった。あたふた。

文化ギャップ

「人質解放予定時刻まであと1時間」ないし「次の解放予定は午後3時」といったヘッドラインを見るたびに、私は朝の新宿駅の山手線ホームを思い出す。1分おきだったか30秒おきだったか忘れたが、恐るべき過密ダイアの運行とその正確さは、ヨーロッパではほとんど神話として語られる。時間に厳しい日本人、というイメージだ。

ヨーロッパでもっとも時間に厳しいのはスイス人である。友達でも人を待つのは5分まで、とスイス人はいっていた。スイス人はとにかくスケジュールを立てるのが好きである。一日のスケジュールを、円グラフにして「朝ごはん」「お手伝い」「勉強」「自由時間」などと塗り分けていたのは、私にとってはるか昔の小学生のことだが(そしてそれは守られることもなかったが)、スイス人には大人になってもそんな律儀な作法を残しているように見える。

やつらの時計は精確だからさ、と皮肉るドイツ人は、友達であれば30分ぐらいは平気で待つ。私はこれが当初なれず、待ち合わせ場所にこないから先に目的地にいってしまったりして、後でえらく急いでいるけどなぜだ、と不思議な顔で聞かれることもあった。電車やバスの到着が5分以内ならば、お、時間どおりだ、とさえいう。どの程度までが許容時間なのか、文化によって暗黙の了解がある。つけくわえると、イタリアなぞはもっと鷹揚である。次のような例もある。友人のバンドがイタリアに公演に行ったときに、めずらしく汽車がほぼ時間どおりに到着した。イタリアやるじゃん、これでギグ安泰、とよろこんだ友人は、改札にきた車掌にでかしたぞ、と声をかけた。すると車掌はちょっとだけむっとして、一日遅れなんだ、と答えたそうだ。

人質を24時間以内に解放する、という発表があってからの日本の社会の反応は、電車の到着を待つ態度によくにている。イラク人の時間感覚に私は詳しくないが、歓喜と絶望の波、およびその間の焦りをせっかちにうねる報道、および人質家族の姿を見ていると、時間感覚のギャップがよっぽどあるんだろうなあ、と思ってしまう。人質がなかなか解放されていない、伸び伸びになっているのはどうやら事実である。しかし、24時間なのだから、あと2時間、というような山手線時間解像度で待つのは諦めたほうがいい、と余計なことかもしれないが、一言助言したくなる。

これは時間感覚のことだけでは実はないのではないか、とも思う。交渉それ自体についても実はそうだ。口約束でも約束は約束、という感覚の文化と、とりあえず約束はするが、ということで交渉にはいってからもフレキシブルに状況が変化する、という文化のギャップ。このギャップが交渉状況の複雑さ(おそらく身代金とファルージャ包囲の状況)をかなり増幅して、いまのネットの意見や大手の報道の揺らぎと焦燥を生み出している。イラクの駅で、なんで時間どおりに汽車がこないのだ、と時計を何度も見直す日本人を私は思い浮かべる。